はじめに
このページを見て何か気づく事はあるだろうか?
これは主人公の和紗が母親から頼まれた食事を、幼馴染の泉に届けるワンシーンなのだが、突然そんな事を問われても答えられる人はいないだろう。
なので、前後が逆になってしまったが、作品の説明をしなければならない。
作品説明と登場人物達
「荒ぶる季節の乙女どもよ。」は文芸部に所属する女子高生5人を中心に、彼女達の恋や友情、そして性に戸惑いもがく姿を描いた物語。
中学の頃とある理由から暗黒時代を経験した地味で奥手な主人公和紗。
周囲から一目置かれ男子からの人気も高い美人の新菜。
和紗の良き友であり、彼女同様に恋愛の経験がなく異性との距離を置く百々子。
独自の雰囲気を纏い完全に周囲からは浮いている、小説家志望のひと葉。
異性や性的なものに対し、異常なまでの拒否感を持つ部長り香。
文芸部のメンバーは周囲から浮いていたり壁を持ってしまっている(新菜の場合は神聖な存在のように描かれ、憧れの対象として周囲から浮いている)。
特に異性に対して、彼女達は大きな隔たりを持っている。そんな文芸部のメンバーが時にはコミカルに、時にはシリアスに恋や性に翻弄されていく姿が見事に活写されていく。
文芸部は、どことなく「海月姫」における尼~ず的な緩やかな連帯と閉塞感を想起させる。
「女子から人気のあるイケメンを幼馴染に持つ、恋や性に奥手な主人公」という安定した設定や、性に関する情報に疎く、異性や恋に距離を持つキャラクター達の暴走気味の妄想。
同性間の緩やかな関係性(ある時期まで)、細かな表情にも配慮された美しい作画は見ていて居心地が良いものの、それが本作の魅力全てかと問われれば「違う」と答えたい。
先程、本作を説明する際に「彼女達の恋や友情、そして性に戸惑いもがく姿を描いた物語」と評した。
これ自体は決して間違いではない。だが、それだけでは説明が不十分であった。漫画的な設定や過剰さ、暴走するキャラクター、交差する人間関係などによって、確かに彼女たちは物語の中で恋や性に翻弄される姿見せる。
その姿は時にはコミカルであり、深刻でもあり多くの読者を楽しませてくれるだろう。
しかし、目につきやすいその姿ばかりに囚われてしまうと、彼女達の微細な変化を見逃してしまう事になる。変化は常に自覚的で自分が考えられる対象とは限らない。
キャラクター達が無自覚に変化し、気付いていない事すらあるのだ。それを考えるために冒頭に提示したページの話に戻ろう。
変化が自覚的とは限らない / 読者に委ねられる
このページは第一回終盤のシーンだ。もう一度、画像を見て何か気づく事はあるか考えてみてほしい。
1ページ目下部の二つのコマについて検討したい。「上がって上がって」と和紗を家に招き入れる泉。その次のコマは和紗から見た泉の左腕を描いたコマだ。
「上がって上がって」と招き入れるコマは二人の人間を描き、非常に窮屈なコマになっているのにも関わらず、何故ただの腕だけ描いたコマをそれよりも大きく描き入れたのだろうか?
こここそが本作の「変化」への丁寧な描写を見て取れる重要なコマなのだ。
このコマの腕(手前部分)には二カ所の影が付いているのが分かると思う。まず、折り曲げた肘付近の影、もう一カ所はTシャツの袖付近の影だ。
肘付近の影は腕を曲げる事で、こういった影が付きやすいので何の変哲もないだろう。しかし、袖付近の影をよく見るとTシャツによる影以外の陰影が付いている事に気づく。
斜線とトーンによって表現された、斜めに入った影だ。このコマを縦に割ると丁度真ん中付近に位置している。これは男性の肩の筋肉の影である。
勿論女性にも筋肉はあるが、ここで重要なのはこのコマが「和紗から見た泉の腕、そこに一瞬見えた肩の筋肉」である点だ。
和紗は食事を泉の家に運ぶ直前に、子供っぽく見える自分の母親が処女ではない事を、自分の中で改めて確認してしまった事もあり「自分が子供っぽく感じているものも、その中身はとっくに自分の知らない大人になっている」と痛感したばかりだった。
さらに、身長などの外見的な泉の変化についても理解していたつもりだったが、不意に見えた普段は服に隠れて見えづらい肩の筋肉に、彼女は「いつの間にか大人になった泉」を感じたのであろう。
もう一度このページに戻る。続く左ページの最初の三コマは「先に歩く泉の脚」、「目線を下にし、それを見つめる和紗」、「和紗の脚」となっている。
和紗、泉共に脚自体は華奢なのだが、泉の左脚脹脛には斜線による筋肉が描写されている(意外に思うかもしれないが、こういった脚の細さの男子高校生は結構いる)。
彼女は泉の体の変化と自分の体とは違う異性である事を改めて実感したのではないだろうか?
泉宅に向かう前に性に関する和紗の妄想エピソードがあったため、泉一人の家に和紗が入る事に戸惑っていたのもあるだろう。しかし、本作は目につきやすい「恋や性に翻弄される女子高生」を漫画的表現で描きつつも、人間の持つ生々しくも見逃しがちな心の機微を描く事で、丹念に重層的な「人間の変化」を描こうとしている。
先のコマが描いたのは丁寧な人体の筋肉描写ではなく、泉の変化に対する主人公の戸惑いや想いといった心理的な描写だと思う(この直後に体の変化に関してギャグによって表面的な回収がされるのだが、それもまた良質なカモフラージュである)。
荒ぶる季節は誰にでも
人は変わり続ける生き物であり、変化は常に痛みを伴う。それは本作も同様で彼女達は常に変化しもがき傷つく。
変化はそれ単独では成立せず、化学反応を起こし新たな変化を連鎖する。それが誰かの幸せにつながる事もあれば、新たな傷を生む事もある。
他者によって一歩的な変化の境界線や期日を定められ、それに苦しむ事もある。変化に囚われ、変化によって救済される人もいるように、変化がもたらすものはいつも定まらない。
また皮肉な事に、「誰かが変わってしまった事」に気づいた自分自身も「他人の変化に気づける人」に変わってしまっている。
泉の肉体的な変化に気づいた和紗は自覚していなかったが、彼女自身も泉が変化した事に気づける大人の女性へと変化しつつあったのだ。
人間の成長や変化を蛹と蝶に例えるのはあまりにも陳腐だと思いつつも、あのコマの中で、無自覚に蛹から顔を出した和紗の蝶の羽を垣間見た。
自分を変えたいという願い、変わってしまった事への後悔、変わってしまった誰かへの失望、変わって欲しくないという身勝手な想い、そしてまた変われるかもしれないという希望。
もがき悩みながら、時に満面の笑みを浮かべ乙女たちはページを捲る度に変わり続ける。荒ぶる季節を過ぎ大人になった彼女達は、自身の青春を思い返し変わってしまった自分や誰かの事を嘆くだろうか?
それとも、変われた自分を誇りに思うだろうか?おそらく、その両方の気持ちを抱えもがきながら生きていくのではないだろうか。それはきっと、誰もが通った道だ。
「荒ぶる季節の乙女ども」は恋や性に翻弄される少女達の物語ではなく、変化に付きまとう痛みと喜びを思い出させてくれる物語。それはいつか誰かが過ごした季節であり、これからも誰かが迎える季節でもある。
【編集部から】 KOTYさん、ご応募ありがとうございました。コマの隅々、作画の隅々にまで目を配り、そこに込められた思いを紐解く素晴らしい記事でした。マンガから憶えることは皆それぞれ多々あります。でも共通なのは、それらの人すべてが通る若く苦くも輝いたあの青春。そんな時を思い出させる記事をまたお待ちしています!