釣りキチ三平

矢口高雄/著

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』発売。自然とマンガに向き合い続けた天才の生涯を追う

2020年11月20日、すい臓がんのため81歳で急逝された『釣りキチ三平』の矢口高雄先生。このたび世界文化社より、矢口先生の人生を振り返る評伝『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』が発売されました。

膨大なインタビューから浮かび上がる軌跡

本書の著者・藤澤志穂子さんは全国紙の支局長として秋田に赴任した際、秋田の自然を描く矢口先生や先生が美術館と協力して推進する原画保存(アーカイブ)活動に興味を持ち、交流が始まりました。

本書はご本人や多くの関係者への5年に及ぶインタビューを通じて、野山に囲まれた幼少期から銀行員としての安定した生活を捨ててマンガ家を目指したターニングポイント、そしてマンガ家として成功していく様子から晩年の活動まで、異色のキャリアを歩んだ矢口高雄というレジェンドの人生を丸ごと振り返ることのできる一冊となっています。

代表作『釣りキチ三平』

矢口先生の代表作と言えば、週刊少年マガジンで1973年から10年に渡って連載された『釣りキチ三平。当時釣りはゴルフのような大人向けの趣味と考えられていましたが、本作の連載開始とともに世の子供たちに大きな影響を与え、釣りブームを引き起こしました

緻密で生き生きとした草木や水、生き物の描写、スタイリッシュで躍動感ある人物の動き、そして釣り方や理論を解説する「釣りコーナー」など、それまでの釣りが持つ退屈なイメージを一新し、当時大ヒットしていた『あしたのジョー』や『巨人の星』などと同じくアクティブなスポーツであることを知らしめた作品です。

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』107頁より引用

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』107頁より引用

本書では『釣りキチ三平』はもちろん、2017年に40年ぶりに復刻され異例のヒットとなった『マタギ列伝』や自身のエッセイをマンガにした『昭和三部作』シリーズなど、各作品にまつわるエピソードや当時の時代背景が詳細に語られています。

レジェンド達と黎明期を歩んだ矢口高雄

また、本書では矢口先生と関わりの深いマンガ家についても多く触れられています。

釣りキチ三平』の主人公・三平三平(みひらさんぺい)の名前の由来にもなった『カムイ伝』の白土三平先生、矢口先生がデビュー前に事務所を訪れアドバイスをもらった水木しげる先生、矢口先生の自然描写を参考にしていたという東村アキコ先生など、先生が先達から受けた影響がさらにその下の世代に繋がっていく様子は、まるでマンガ史の一部を覗いているようです。

その中でも、同時代の多くのマンガ少年と同様、矢口先生の憧れだったのは手塚治虫先生。しかし二人の辿ってきた道や執筆スタイルは真逆とも言えます。10代でデビューしSFや歴史物、少女マンガまで幅広いジャンルで活躍した「マンガの神様」に対し、30歳まで銀行に勤めたのち上京、一貫して自然と人間の共生をテーマに描いた矢口先生。

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』4‐5頁より引用

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』4‐5頁より引用

それでも、芸術としてのマンガの価値を向上させ守っていこうとする矢口先生の姿勢と活動は、マンガがまだ「悪書」と呼ばれた時代に生涯をかけてその地位向上に努めた手塚先生からしっかり引き継がれたもののように感じます。

未来に原画を遺す

矢口先生の故郷である秋田県横手市には、横手市増田まんが美術館というマンガ専門の美術館があります。矢口先生が名誉館長を務められていたこの美術館の最大の特徴が、マンガ原画のアーカイブ活動を推進していること。

手塚先生が戦っていた時代と違い、今ではマンガの魅力は広く認知され、2019年には大英博物館で大規模な特設展示が行われるほどになりました。それはマンガに芸術的な価値が認められつつあるということであり、それ自体は素晴らしいことなのですが、同時に課題も出てきています。その一つが、マンガ原画をどうアーカイブして未来に遺していくか、という点。

この問題にいち早く取り組んできたのが矢口先生と増田まんが美術館であり、現在同館では矢口先生の全原画を始め、国内外の作家180名あまり、総数約40万枚の原画が預けられ、国内でも最先端の立場にあります。

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』222頁より引用

『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』222頁より引用

本書ではこの活動や想いについても詳細に書かれており、普段私たちが気にすることの少ない、しかしマンガという文化にとって非常に重要な部分について知る事ができます。

※ちなみに矢口先生が亡くなる少し前、11月10日放送のTBSラジオ「アフター6ジャンクション」でマンガ原画のアーカイブについて特集がありました。番組内でも増田美術館や矢口先生について紹介されており、本書にも登場する館長の大石さんもゲストで出演されています。

また12月8日には追悼特集として、先生の次女のかおるさんが出演されています。

マンガ家・矢口高雄の生涯とマンガ界の歴史と未来

高度成長期とともに成長したマンガ界を駆け抜け、創作活動を辞めた晩年も公益社団法人日本漫画家協会の理事や増田まんが美術館の名誉館長を務めるなど、マンガへの愛と情熱を失わなかった矢口高雄先生。

本書は矢口先生の人生を振り返る評伝であるとともに、その時々のマンガ界や社会情勢を辿り、最終的にマンガの未来を見据える道しるべのような内容となっています。

矢口先生が手塚先生や白土三平先生から影響を受けたように、先生が遺した作品や理念はさらに下の世代に引き継がれ、マンガ界の未来を作っていく。それこそが矢口先生、そして三平くんの見ている夢なのかもしれません。

心よりご冥福をお祈りいたします

釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝
藤澤志穂子/著