1990年から1995年にかけて『ビッグコミックスペリオール』で連載された『サンクチュアリ』。完結から25年以上経つ今も多くのファンから支持される、不朽の名作です。
主人公は、カンボジアでポル・ポト政権による大量虐殺に巻き込まれてしまった北条彰と浅見千秋。命からがら帰国した二人は、無為な日々を過ごす日本の人々に絶望します。自分たちの力で日本を変えるため、北条は極道の世界で、浅見は政治の世界で頂点を目指します。
壮大な夢の実現のために次々と困難へ立ち向かう二人のストーリーは、経営者の方々から根強い人気があるのだとか。サイバーセキュリティ事業を手がけるFlatt Security代表の井手康貴さんもその一人です。
井手さんは『サンクチュアリ』から多大な影響を受け、会社の必読書にしてしまうほどのファンだといいます。そして、井手さんによる強いオファーにより、原作者の武論尊先生との対談が実現しました。
今だからこそ明かせる『サンクチュアリ』制作秘話と、北条と浅見のように日本を変える夢を追う井手さんのストーリーが語られました。
「連載を辞めたくて、主人公を病気にしちゃった」
ーー本日はどうぞよろしくお願いいたします!まず武論尊先生に、サンクチュアリの制作がどのようにスタートしたのか、背景をお聞きしたいです。
武論尊先生:武論尊と史村翔の二つの名義を持ち、アクションからコメディまで幅広い作品の原作を担当。2020年1月には『サンクチュアリ』の続編である『BEGIN』が完結を迎えた。代表作として『サンクチュアリ』、『ドーベルマン刑事』、『HEAT-灼熱-』、『北斗の拳』などを30作品近くを手がける。
武論尊:作画の池上遼一先生の手がたまたま空いて、編集者から「組まないか」と言われたんですよ。すごい実力を持った先生だから、とりあえず飛びつくじゃん。斬新な作品を描くためのテーマを考え、「政治」にたどり着きました。
でも政治の話だけだと、どうしても小難しくなっちゃって、多くの人が楽しめるエンターテインメントとして成立しない。それで、俺の得意な「ヤクザ」を絡ませようと(笑)。
ーー「とりあえず政治とヤクザを絡ませてみよう」と始まったんですね。『サンクチュアリ』は政界や極道の人々の描写にとてもリアリティがありますが、取材などもされたのでしょうか。
政治家たちの戦いがとてもリアルに描かれる。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)11巻より引用。
武論尊:俺は勉強が大嫌いだから、ぜんぶ勘で描いてるの。担当の編集者は資料を用意してくれるけど、読みません(笑)。とりあえずラクして稼ぎたいタイプなんだよね。
ーーえっ、しっかり下調べされていないんですか?
武論尊:うん。ちゃんと本を読むような性格だったら、マンガの仕事をしていないと思うよ(笑)。北条と浅見がカンボジアから生還した設定も、たまたま連載を始める3年前にカンボジアに訪れた経験があったから思いついたんだよね。
「これほど大きな夢を持つ二人なら、過去に凄まじい体験をしているはず」と考えて、後付けしたの。
ーー驚きですね…!キャラクターはどのようにつくっていかれたのでしょうか。たとえば北条と浅見の強敵の伊佐岡幹事長は、本当に良い悪役ですよね。
幾度となく北条と浅見の前に立ちはだかる強敵・伊佐岡幹事長。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)2巻より引用。
武論尊:伊佐岡は、俺の中では「政界のドン」と呼ばれた金丸信をモデルにしたんだよね。北条と浅見の器を引き上げる必要があったから、何とか魅力的な悪役をつくろうと。
ーー「器を引き上げる」というと?
武論尊:敵が強大なほど、主人公もそれに引っ張られて魅力的になるんですよ。反対に、敵がただのチンピラだと、主人公もチープに見えちゃうからね。『北斗の拳』も同じで、ラオウがいるからケンシロウもかっこよく見えるんです。
ーー強大な敵をセットにすると、主人公が急成長していく物語がつくれるわけですね。武論尊先生が、「上手く描けた」と思われるキャラクターはいますか?
武論尊:渡海かな。欲望のままに生きる彼は、エンターテインメントを象徴するキャラクターです。野生的で大の女好きなのに、だんだん北条という男の器に惹かれていく。彼みたいな生き様がかっこよく見えると、面白いかなと。
序盤では北条を敵視していた渡海だが、北条の器に惚れ込み、頼れる味方になる。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)5巻より引用。
ーー渡海は終始暴れっぱなしで、物語を面白い方へ転がしてくれましたね。池上先生と共同で作品をつくられる過程は、どのようなものでしょうか。
武論尊:実は池上さんとは、年に2回ほどパーティーで会うくらいなんですよ。連載中のやり取りも編集者を通してしか話さないし、電話番号も知らない。
ーーえぇ!まったく連絡も取らず、制作に支障はないんでしょうか。
武論尊:何も問題ないよ。俺は最高の物語をつくるし、池上さんは最高の絵を描く。お互いの仕事ぶりを信頼し合っているから、自分の担当じゃない領分は相手に任せる。踏み込んじゃいけないんだよ。
だから、会ってもマンガの話はしないんです。連載が終わった後なら、少しは話しますけどね。「あの場面はこうした方が良かった」とか、結構きついことを言われます(笑)。
ーー仕事で相手を納得させられるなら、連絡を取り合う必要もないと。『サンクチュアリ』の制作にあたり、印象に残るエピソードはありますか?
武論尊:一回、連載が辛くなって逃げたことですかね。「これを続けてると俺はパンクする」と思ってしまい、半年くらい休みました。
ーーそうなんですね。作中でいうと、どの辺りでしょうか?
武論尊:物語が一番盛り上がってきた辺りだと思う。浅見が病気になって、血を吐く前ですね。ここから面白くしていかなきゃいけないのに、良い展開が思い浮かばなかった。だから休ませてもらったんです。
その後、連載を再開しようとしたら、担当の編集者がすごく苦手な人に変わっちゃったんだよね。それで連載を辞めたくなったから、「こいつを病気にして、物語の先をなくしちゃえ!」って(笑)。
ーーえっ、そんな理由で浅見は病気になったんですか!
大人の事情で病に伏してしまった浅見。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)11巻より引用。
武論尊:すぐに当時の編集長が飛んできたので、「辞めたい」と伝えると、担当を変えてくれました。だから、浅見に血を吐かせたのは大正解だったんだよね(笑)。
ーーあの展開にそんな背景があったとは、衝撃です…。
武論尊:けれど結果的に、浅見を病気にしたことで、その先のストーリーも見えてきたんですよ。キャラクターの命にタイムリミットができると、物語がどんどん進むんです。
ーー浅見の病気が発覚してから、北条は浅見が生きているうちに夢を成し遂げるため、それまでよりも必死になりましたね。
浅見が病に侵されていると知り、奮い立つ北条。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)11巻より引用。
武論尊:そうです。俺が物語をつくるときは、いつもそんな感じで行き当たりばったりなんですよ(笑)。
ーーそんな描かれ方をされたとは思えない完成度です…。先生は『サンクチュアリ』を通し、人々に何を伝えたかったんでしょうか。
武論尊:北条や浅見と同じように、日本の未来を変えたい想いはあったかな。当時はバブルの真っ最中で、学生がスポーツカーやゴルフクラブをローンで買っちゃうの。
おじさんからすれば、「この子たちは大丈夫なのか」と言い知れない不安があったんですよ。物語の終盤、北条や浅見が人々に「選挙へ行こう」と伝えていたじゃん。
若い人たちに「君の一票で日本を変えられる」と知ってほしかったし、「日本を良くしたい」という想いを多くの人に持ってほしかったんです。
北条たちの働きかけによって、投票所に押し寄せる若者たち。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)11巻より引用。
「日本を変えようとする北条と浅見の姿が、自分に重なった」
ーー井手さんは会社経営をされていますが、高校時代には18歳選挙権の成立に携わるなど、政治活動もされていたそうですね。『サンクチュアリ』作中の、若者たちが投票するよう働きかける描写には、大いに共感されたのでは?
井手康貴さん:Flatt Security代表取締役。1996年生まれ。東京大学に在学中。高校時代は18歳選挙権の成立に携わるなど政治活動を行っていたが、政治に限界を感じ、ビジネスで世の中を変えることを志す。大学入学後、メルカリなどでのエンジニア経験を経てFlatt Securityを創業。ソニーや任天堂、トヨタのような国内で時価総額トップ10かつ海外売上7割程度の会社に成長させ、世界に愛されるサービスの提供を目指す。
井手:まさに。僕の政治活動の動機は、武論尊先生が作品で伝えたかった想いと近いかもしれません。作中では「日本人の眼に力がない」といったセリフも登場しましたよね。これは経済的に落ち込む今の日本にも当てはまると思います。
北条の右腕である田代は、人々の無気力さを指摘する。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)1巻より引用。
井手:若い人の投票率を上げないと、高齢者のための政策しか生まれません。だから、とにかく投票しないといけないのに、若い人たちは選挙に行かない。そんな現状に危機感を持ち、アポも取らずに議員会館に押しかけたりしていました。
ーー驚きの行動力ですね!そこから政治家の人たちとつながり、ご自身でも政治活動をされるようになったと。
井手:はい。ただ、政治の世界は複雑で、自分がつくりたい政策を成立させる人はなかなかいません。活動を続けるうちに、政治家の立場から日本を変革するのは難しいと考えるようになりました。
そして、「ビジネスなら」と起業家になることを決意し、東京大学に入ったんです。その後メルカリさんをはじめ、色々な会社でインターンとして学ばせていただき、今は自分の会社を経営しているわけです。
正直、中高と男子校で寂しい青春を送っていたので、「キラキラしたサークルに入って女の子と遊びたい」という気持ちもあったんですけどね(笑)。
ーービジネスを学ぶことを優先されたと。政治活動をされていた当時から、『サンクチュアリ』への共感が原動力になっていたのでしょうか?
井手:いえ、実は初めて『サンクチュアリ』を読んだのは、大学生になって起業した後なんですよ。知り合った起業家や投資家の方たちの間でバイブルのように扱われていたので、気になって読んでみたんです。
日本の未来に危機感を抱く自分と、北条や浅見の姿がそっくり重なり、大ファンになりました。
集めた若手政治家たちに夢を語る浅見。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)3巻より引用。
井手:あまりにも好きすぎて、会社のメンバーに読んでもらうために、必読書としてオフィスに置いています(笑)。うちで働く人には、北条や浅見と同じように、何があっても夢の実現に漕ぎつけようとする情熱を持ってほしいんです。
今は北条や浅見の考え方を、会社の行動指針に落とし込むことも検討しています。反対に、『サンクチュアリ』に共感できない人はうちに合わない。もしかすると、面接の前に読んでもらうのもアリかもしれません。
ーー思い入れの強さがものすごいですね…!印象に残っているシーンはありますか?
井手:ありすぎて難しいですね…。あえて言うなら、北条が「夢があるから男も女も生きていられる」と話すシーンが好きです。夢について語られるシーンは、どこも最高。
作中、夢を持つ大切さが何度も強調される。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)2巻より引用。
ーーすごく分かります。武論尊先生は作中で人の夢を描くにあたり、意識されたポイントはありますか?
武論尊:すべてのキャラクターに大小さまざまな夢を持たせたことかな。主人公の二人にはひときわ大きな目標を与え、それを決してブレさせなかった。
夢を持つ人は、北条や浅見のように壮大な夢を持つ人に強く惹かれ、自然と仲間になっていくじゃないですか。その様子を描きたかった。
ーー『サンクチュアリ』では神戸山王組の伊吹をはじめ、最初は敵対していたキャラクターたちが、次々と北条の仲間になっていきますよね。
最初は北条と敵対していた伊吹も、北条の夢に惹かれていく。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)9巻より引用。
武論尊:そうだよね。井手さんの会社の人たちも同じように、井手さんの夢についていきたいんだよね。大きな目標を掲げ、そこに向かってブレなければ、社員の人たちも絶対についてきてくれると思う。誰も登れないような大きな山をみんなで登るときは、苦労は尽きないけれど、ワクワクするもんね。
井手:本当におっしゃる通りだと思います。大きな夢を持つ人ほど、人を惹きつける。僕の場合、「日本でトップ10に入る会社をつくる」と言い続けています。それはとてつもなく難しい挑戦ですけどね。
井手さんは「5兆円企業」を目指し、武論尊先生は「詐欺師のコメディ」を描く
ーーでは、井手さんにとってサイバーセキュリティ事業は大きな山だと。
井手:まさにそうです。実は僕、サイバーセキュリティ事業を始める以前は、ライブコマース事業を手がけていたんですよ。その事業も伸びていたんですが、どれだけ上手く成長しても、10年で200億円から300億円ぐらいの規模になるのが限界だと気づきました。
僕が目指す日本でトップ10に入るには、5兆円を超える規模の会社をつくる必要があります。「貴重な時間を費やすなら、もっと大きな山を登りたい」と、一度は事業を畳むことにしたんです。
けれど、みんなで必死に取り組んできた事業を辞めるわけだから、メンバーからは猛反対されました。そのタイミングで、ほとんどの人たちが会社を去ってしまいました。
ーー事業を畳むとなると、多くのメンバーが自分の仕事を失うわけですしね。
井手:はい。一時期は仕事がまったくない状況でした。それでも残ってくれたメンバーはいて、本当にありがたかったです。
そこから大きな山を登ろうと必死にもがくんですが、次第に道のりの険しさが分かってきて、目標を下げたくなってくるんですよ。そんなとき、『サンクチュアリ』は心の支えになってくれます。
ーー「北条や浅見だったら、ここで諦めないだろう」と。井手さんは事業活動を通じて、どういう“絵”を描こうとされているのでしょうか。
北条と伊吹は手を取り合い、自分たちの夢を追う。『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)9巻より引用。
井手:世界中の人たちをサイバー攻撃から守り、誰もが安心して暮らせる世界をつくりたいです。色々な産業のデジタル化が進むほど、企業の脆弱性も増えていきます。2020年1月には、三菱電機さんやNECさんがサイバー攻撃を受けたニュースが話題になりましたよね。
攻撃を受けた企業さんが対策を怠っているように見えますが、むしろ適切な措置を取っていたからこそ、攻撃に気づけたんだと捉えています。対策が甘いと、そもそも攻められていると気づけませんからね。
ーーとすると、発表されていないだけで、いつの間にか攻撃を受けている企業は多いかもしれませんね…。
井手:おっしゃる通りだと思います。十分に対策できている企業さんが少ない中で、僕たちは会社を守る手段を提供し、人々の生活を支えたいんです。そして、その道のりを歩む上でのテーマの一つが、若者にお金を回すことです。
ーーというと?
井手:今の初任給って、大体20万円くらいじゃないですか。東京に住むとなると家賃は8万円くらいかかりますし、自分の生活を維持するだけで精一杯な若者が多いと思うんです。
けれど、生活に余裕さえ生まれれば、世の中を良くする活動に目を向ける若者が増えるはず。僕の活動の動機は高校時代から変わらず、日本の未来を照らすことですからね。
ーーではそのために、どういった活動をされていくのでしょうか。
井手:会社を成長させ、優秀な若者をたくさん雇い、海外でたくさん使われるサービスをつくります。そして、手伝ってくれた若者たちにたくさん給料を支払うんです。
そうすれば、海外から集まってきたお金が、日本の若者に行き渡りますよね。実際にFlatt Securityでは、10代から20代前半の若手メンバーがたくさん活躍してくれています。
ーー未来の会社の姿を、明確にイメージされているのですね。武論尊先生は2020年1月に『サンクチュアリ』の続編である『BEGIN』の連載を終えられましたが、今後の展望はありますか。
武論尊:すでに次回作の執筆を進めていますよ。コメディを描くつもりです。俺にぴったりの、詐欺師の話を。俺の生き様が詐欺師みたいなもんだから、キャラクターの心理も簡単に想像できるし、何も苦労しませんね(笑)。
ーー連載が終わったばかりなのに、もう動き出されているのですね…!失礼かもしれませんが、武論尊先生はこれまで数々のヒット作を生み出されており、生活には困りませんよね。「ラクして稼ぎたい」と話される武論尊先生が、執筆を続けるモチベーションは何でしょうか?
武論尊:原作者として、まだ現場で負けたくないんだよね。毎回、編集者に描き直しさせられるけど、負けたくないから喰らいつく。そんな動機だから、新人作家が現れたら「どうやって潰すか」しか考えてない(笑)。
「かかってこいよ」と思うし、そこからのし上がってきた作家は本物になるだろうね。こっちも、本気で潰しにいくから。
ーー執念めいた想いを感じます。
武論尊:まぁ、もはや生業みたいなもんだからさ。もうこんな歳だから、頭を使わないと老化しちゃうし(笑)。ボーッとしているよりは、マンガを描いた方が楽しいからね。
あとがき
実は最初にこの企画のお話をいただいたとき、「漫画家さんと起業家さんの対談で、うまく記事が成立するのかな」と不安を抱きました。しかし、まったくの杞憂だったようです。お二人には、本当に聞き応えのあるお話ばかりしていただきました。
対談が終わると、同席されたFlatt Securityのメンバーの方々が記念撮影とサインを求め、武論尊先生はそれに快く応じられた後、笑顔で去っていかれました。武論尊先生のサインが記された色紙と単行本は、Flatt Securityのオフィスに飾られるそうです。
井手さんたちが心から『サンクチュアリ』を好きなのだと分かると同時に、若い人たちの心を動かすために筆を取られた武論尊先生の想いが、実っているようでした。マンガ業界を盛り上げたい僕たちにとっても、希望が持てるやり取りを目にできたように思います。