Skeb買収、『静かなるドン』大ヒット…話題の実業之日本社・社長に話を聞いてみた

今年2月に大きく話題になったイラストコミッションサービス「Skeb」の買収や、電子書店での『静かなるドン』大ヒットなど、大きく注目を集める実業之日本社。

創業120年を超える老舗出版社で、今何が起こっているのか?

代表取締役社長・岩野裕一さんにインタビューして、詳しくお聞きしました。

登場する人のプロフィール

岩野裕一

1964年東京生まれ。上智大学大学院文学研究科博士前期課程修了。1987年、株式会社実業之日本社に入社、旅行ガイド、経済誌、一般実用書、文芸書の編集ならびにライツ業務に携わる。2016年3月、代表取締役社長に就任し、現在に至る。音楽ジャーナリストとしても活動しており、著書に『王道楽土の交響楽 満州――知られざる音楽史』(第10回出光音楽賞受賞)、『文庫はなぜ読まれるのか――文庫の歴史と現在そして近未来』などがある。

経営不振から、創業120年目のベンチャー企業を目指すまで

ーー実業之日本社さんは、第115期の決算で、2016年4月に大株主が交代して以来、過去最高益だったんですよね。『静かなるドン』の売り上げがすごいことになっていますが、どのように成功したんでしょう。

少し長くなってしまうんですが、そもそもの話をすると、実業之日本社は1897年にできた会社で、来年で創業125年を迎えます。


長い歴史の中で浮き沈みがあったわけですが、出版不況の煽りを受け、ここ十数年くらいは業績がかなり厳しい状態でした。

Zoomでの取材に応対してくださった、実業之日本社 代表取締役社長 岩野裕一さん

ーー出版業界は1995年をピークに、市場規模がどんどん縮小していったんですよね。

その中で、実業之日本社はコンテンツビジネスや出版業界の変化に適応できず、取り残されてしまったんです。


『静かなるドン』が連載されていた「週刊漫画サンデー」を2013年に休刊したのも、ビジネスとして維持できなくなったからでした。


当時はまだ電子書籍の市場が伸びる前で、紙から電子への移行もうまくいかず、断腸の思いで休刊という選択を取らざるを得なかったんです。


その頃は、会社としてはどん底で、このままでは本当に会社を続けるのが難しいというところまで行きました。

ーー大変な状況ですね…。

そこで、会社として大きな改革をしました。それが、独立企業という立場を捨て、シークエッジグループの傘下に入ることでした。


出版社は家業でやっている会社が多く、講談社は野間家、小学館は相賀家、新潮社は佐藤家がそれぞれ一族経営しています。


実業之日本社も同じように増田家という一族が経営していたんですが、会社として生まれ変わるために、オーナーが変わったんです。

ーーそんな経緯があったんですね。

そのタイミングで、私は経営者としての経験はまったくなかったんですが、社長に任命されました。


それに先立って、まず自分たちで改革しようと、スリムな組織にするために希望退職を募ったりして、もともと100人近くいたところ、50人くらいの会社になりました。


当時はまだ社長ではなかったとはいえ、社員の人たちには負担をかけてしまい、申し訳なく思っています。


さらに社長就任後は、社内向けに「創業120年目のベンチャー企業になる」というキャッチコピーを掲げました。

ーー創業120年目のベンチャー企業、ですか。

会社としての歴史は大切にするけれど、これから新しくビジネスを生み出すベンチャー企業のつもりで仕事をしなければ生き残れないぞ、と。


そして、具体的に何に力を入れたかというと、紙媒体での新作の開発と、既存コンテンツの二次利用です。

ーーほうほう。

まず前者について話すと、マンガで言えば、週刊誌を出さずに新しい作品を世に送り出す方法を探ったんです。


当時、「週刊漫画サンデー」は休刊したけれど、編集部はほぼ同じメンバーで残っていました。


歴史ある媒体に幕を下ろさざるを得なかった悔しさもある中、現場のメンバーたちはすごくがんばってくれました。


そして生まれたのが、「イラストコミック」というマンガとイラストの間のような作品です。

ーーマンガとイラストの間?

『百貨店ワルツ』(マツオヒロミ作)という作品が一番の成功事例ですが、単なるマンガではなく、オールカラーでイラストとしての美しさを楽しんでもらえるような作品です。


「週刊漫画サンデー」の頃とは違うニッチな需要を開拓していった結果、こういった新しい方向性の作品がヒットするようになりました。

ーー同じ編集部だけど、今までと違う作風でヒットを出せたんですね。

そしてもう一つ、既存コンテンツの二次利用、つまり著者の方たちからお預かりしているコンテンツを最大限に活用するビジネスを始めました。


いろいろな取り組みをしたのですが、例えば「週刊漫画サンデー」で約20年前に連載していた『監察医 朝顔』は、弊社からフジテレビさんにアプローチする中で、先方から提案があってTVドラマ化していただきました。


また、それまであまり力を入れていなかった海外版権販売にも力を入れ、海外の出版社とのつながりは相当強くなりました。


さらに、すでにたくさんあるコンテンツを新しい層へ広めるため、多くの電子書店さんとつながり、電子書籍の販売にも力を入れています。

『静かなるドン』の大ヒットは、電子書店と好相性だったから

ーー『静かなるドン』は電子書籍で大ヒットしていますが、どのような施策を打たれたのでしょうか?

そうですね、ここでようやく『ドン』の話ができます。『ドン』は本当に、ものすごい作品なんです。

ーー紙のコミックスでも累計4,500万部以上の、怪物的なヒット作です。

『ドン』はコミックスで108巻もある長大な作品であり、新田たつお先生の大傑作で、弊社の宝物と言える偉大なコンテンツです。


ガラケーの時代から電子書籍として配信し、ずいぶんたくさんの人に読んでもらっていました。


とはいえ、『ドン』は常に売れてはいるけれど、2年前までは今ほど目立った売れ方はしていなかったんです。


例えば紙の本でも、太宰治や夏目漱石はずっと売れているけれど、爆発的に売れているわけではないじゃないですか。


それと同じような感じでした。

ーーそこから、この2年間で何が起こったんですか?

「ピッコマ」を運営するカカオジャパンさんに『静かなるドン』のプロモーションを提案され、そこでの施策がどんどん当たったんです。


今でこそすさまじい勢いのカカオジャパンさんですが、最初に日本でサービスを始めたとき、大手の出版社さんは相手にしなかったんですよ。


ピッコマの「待てば1話ずつ無料で読める」というビジネスモデルではうまくいかないだろうと、取引しなかったんです。


最初に取引を始めたのはたしか竹書房さんと日本文芸社さんで、弊社も早い段階で取引を始めました。

ーー創業120年目のベンチャー企業として、ピッコマのような新しい売り方を積極的に取り入れたんですね。

私たちは大手出版社のようにコンテンツが膨大にあるわけでも、資本力があるわけでもないですからね。


地道に、できることはなんでもやる以外に、勝ち目がない。そういう意味では、チャレンジ精神が社内に浸透してくれたなと思っています。

ーーそれで、なぜ『ドン』はあそこまでヒットしたんですか?

これは後から伺った話なんですが、カカオジャパンさんは、とにかく『ドン』は絶対いけると思っていたそうです。


カカオジャパンの金(在龍)社長は『ドン』の大ファンで、どういう作品かを深く理解してくださっていました。


彼いわく、100巻を超えるような長尺の作品はたくさんありますが、多くの作品は途中でストーリーがひと段落ついたりするわけです。


しかし、『ドン』は108巻すべてが一つのストーリーとして連なりを持っており、一度読み始めたら最後まで読者を引っ張る力があると。


そして、話数が多いということは電子書店にとってそれだけチャンスがあるということですし、待てば1話ずつ無料という売り方にも非常にマッチします。

ーーコンテンツ自体の性質が、ピッコマのような電子書店での販売に向いていたということですね。

実際にカカオジャパンさんが戦略を立ててプロモーションをかけると、ものすごく手応えがあり、何か手を打てばどんどん返ってくるので、急激に売り上げが伸びました。


その様子を見た他の電子書店さんも、「『ドン』がこんなに売れるならやってみましょう」とどんどん提案してくれて、どこでも結果が出ていったんです。

ーーピッコマでの成功をきっかけに、いい循環が回っていったんですね。

はい。『ドン』はもともと大ヒット作ですが、各電子書店でのプロモーションをきっかけに、新しい層の読者さんにもどんどん広まりました。


『ドン』の読者層はそれまで中高年の男性が多かったんですが、より若い層や女性の方が読んでくれるようになったんです。


『ドン』はヤクザマンガですが、恋愛やサラリーマンの仕事における悩みなど、誰が読んでも面白い要素が散りばめられている。


そういう作品の力と面白さが、読者に伝わったんだと思います。面白くなかったら、みんな途中で読むのをやめるわけですから。

ーーたしかに。

というわけでまとめると、恥ずかしい話ですが、私たちは何もしていないんですよ。


金社長が話してくださった『ドン』の可能性も、言われればたしかにそうだ、と思うくらいで、自分たちから提案できていたわけではありませんからね。


新田先生が素晴らしい作品を生み出してくれて、カカオジャパンさんがその普遍的な価値を見出してくれて、そして何より読んでくださった皆さんのおかげで、驚くような結果が出たわけです。

ーーちなみに『ドン』の売り上げはいまだに伸びているんですか?

一時の驚異的な伸びに比べれば落ち着きましたが、いまだに売れ続けています。


急激なヒットは急上昇した分、急降下するものなんですが、でも、『ドン』はもともとヒット作であり、電子書店でも2年かけてなだらかに伸びていった作品です。


今のブームが去ったとしても、永遠に読み継がれる作品になるだろうと思います。

Skebの買収は、二次創作文化への考え方が一致したから

ーー続いて「Skeb」の買収について伺いたいです。2月にニュースが出たときはTwitterなどでかなり話題になりましたし、僕自身もすごく意外性があって驚いた覚えがあります。

そうですよね(笑)。


先ほどお話ししたように、実業之日本社は5年前にシークエッジグループという、いろんな企業を経営しているグループ企業の一員になりました。


傘下には上場企業が数社あって、従業員総数は2,000人を超えるかなり大きなグループです。


また、手がける事業はIT、システム、アパレル、飲食、金融など、実はとても幅広いんです。


そして、もともとコンテンツビジネスに興味を持っていたグループであり、Skebの買収もグループ全体としての意思決定でした。

ーーなるほど、実業之日本社さんとしてというよりは、グループとしての判断だったのですね。

そういうことです。とはいえ、実業之日本社があったから共鳴できた面もあります。


Skeb代表の喜田(一成、通称:なるがみ)さんは、Skebを信頼できる株主に委ねつつ、自身はクリエイターのための新しいビジネスを展開するために、一緒に仕事をできる企業を探していました。


そのため、いろいろな会社と話したそうなんですが、その中で私たちのことをとても気に入ってくれたんです。

ーーそれはなぜですか?

商業出版の業界と、二次創作や同人の業界って、対立の構図のように見えることがあるじゃないですか。


しかし、著作権をめぐる権利侵害などの対立があれば、うまく歩み寄れれば双方にとって利益になるはずだし、その橋渡しがしたいという思いが私には前々からあって、喜田さんもまったく同じ考えだったんです。

ーー二次創作という文化に対する考え方が近かったんですね。

そういうことです。


たしかに現状、まだ法的にいろいろな問題があって、二次創作においてはクリエイターさんに気を付けてもらうべき場面は多いです。


しかし、何かを作り出したいという思いは一次も二次も同じで、権利処理がきちんとできれば、あとは商業なのか同人なのかという違いがあるだけ。


今はもう誰もが創作物をネットで発信できて、プロとアマチュアという区別が意味を持たない時代になってきていますからね。

ーーたしかに。

その中で、今がダメだと言いたいわけではありませんが、出版社も変化していく必要があると考えています。


だから、我々はうまく利害関係を調整して、クリエイター同士の橋渡しをするような役割をできるといいなと。

ーーその点、岩野さんはSkebのどういったところに価値を感じているんですか?

SkebはCtoCのクリエイターと顧客が直接つながるプラットフォームですが、そんな個人同士の取引高が、中堅出版社である私たちの売上高と、ほとんど変わらないんですよ。


出版社はBtoCで、印刷という手段を使ってコンテンツを広めることを100年以上やってきたわけですが、CtoCのビジネスでこれだけの規模があるのが、すごく衝撃的だったんですよね。

ーーなるほど。

でも、出版社のビジネスも本来はCtoCじゃないといけないと思うんです。著者と読者をつなげる役割ですからね。


現状の出版ビジネスにおける、コンテンツを紙に印刷するコストを背負い、全国に流通させ、書店で読者に買ってもらうというモデルは、崩れきってはいないけど限界に達しています。


出版社のビジネスモデルは、100年単位の変化を求められている状況なんです。


その中でSkebは、大きなヒントを与えてくれる存在だと思っているので、こういう会社と一緒になれたのは本当に幸せです。

ーーちなみ実業之日本社さんは、Skebの経営にはほとんど介入していないとお聞きしました。買収をきっかけに、サービスの雰囲気が変わってしまうのではないかという心配の声も聞かれましたが…。

Skebのことは、喜田さんに任せるのが一番いいですからね。私たちには、Skebのことは全くわかりませんから(笑)。


喜田さんはSkebの株主ではなくなり、喜田さんの時間やエネルギーは新しいサービスのためにも使ってもらいますが、引き続きSkebの代表取締役として先頭に立ってもらいます。


今まで通り、Skebの方向性やクリエイターファーストの姿勢を曲げるつもりは一切ありません。


私たちは親会社と子会社というよりも、パートナーという感じで、どちらかといえば実業之日本社はSkebに学ぶ側なんですよね。

既存の出版ビジネスを続けるためにこそ、新しいことをする

ーー出版の市場規模は2年連続で拡大と好調ですが、そんな中で、実業之日本社がどうしていくのかの展望を教えてください。

まず、出版社がこれから生き残るために重要なポイントは2つあると考えています。


それは、クリエイターさんとともに作品を作り上げる「編集の力」と、権利関係を管理する「ライツの力」です。


この2つの力は、クリエイターさんにとっては武器になるはずで、それを提供することでコンテンツの売り上げから手数料をいただく、というビジネスモデルになっていくと考えています。

ーーほうほう。

つまり、出版社が今持っている仕組みを、よりクリエイターさんを支えられる形で提供していくことが大切だということです。


例えば今は同人の世界でコンテンツを作っているけど、商業の世界にも興味があるというクリエイターさんに、実業之日本社のリソースを活用してもらえたりするといいなと。


そういった意図から、7月にはSkebアドバイスというサービスが開始したことを記念して、登録しているクリエイターさん向けに、実業之日本社の編集者からアドバイスをもらえる、というキャンペーンを行いました。

ーーこの機能はそういった意図で作られたんですね。

編集者の参加はまだ実験段階ですが、こういった連携を深めていくことで、出版社もSkebも強くなり、またクリエイターさん、その先にいるユーザーさんにも喜んでもらえるのではないかと考えています。


クリエイターさんの作品がよくなり、普段の生活がよくなって、さらにいい作品を発表できるようになれば、コンテンツを購入するユーザーさんにとってもメリットになりますからね。

ーーたしかにそうですね。

これからの出版業界において、これが最善の答えと結論づけているわけではないですが、Skebの存在は、クリエイターさんを支える力の一つになるはずと信じています。


また、実業之日本社は他にも新しい取り組みをいろいろしていく予定です。


それは、今まで通りの出版ビジネスを続けるためにこそ、新しい仕事で稼がなければいけないからです。


普段、社内で「新しいことをするために変化してほしい」と伝えると、「今までの仕事はどうなるのか?」と聞かれるんですけど、逆なんですよね。


例えばクラウドファンディングや暗号資産の台頭など、貨幣経済そのものがガラッと変化していくなかで、クリエイターさんが正当な対価を得るために出版社ができることって、たくさんあると思うんですよ。

ーーあまりピンとこないんですが、具体的にはどんなことを?

欧米での音楽業界の例を話すと、ミュージシャンが「将来これから発生する印税を受け取る権利を、事前に売る」ということが起こっています


そうすると、本人の死後に遺族へ渡される分の印税まで、生きているうちに得ることができますよね。


つまり、クリエイターが自分の持っている権利を、今までは想像がつかなかったような形でお金に変えていくことが、すでに現実で起こっているわけです。


同じように、新田先生がOKすれば、『静かなるドン』の未来の売り上げを証券化して、投資を募ることだってできるかもしれない。

ーーそれは面白いですね。

お金の話を好まないクリエイターさんもいらっしゃいますが、安定した生活を送ることは、作品を作っていく上でとても大切なことです。


クリエイターさんのためにできることはたくさんあって、それを頑張ることが結果的に出版社として生き残ることにもつながるはずです。


その上で、これまで提供してきた仕組みだけでなく、さまざまな面で今の時代に適したサポートをしていく。


それが出版社の新しい形になると考えていますし、その成功例と言える出版社を目指していきたいです。