「あひるの空」=呼吸
「なんであひるの空がそんなに好きなの?」僕がとても回答に困る質問の一つだ。
「あひるの空は呼吸だから」
そう言えれば僕はスッキリするのだが、質問した当人は全然スッキリしないだろう。でも判って欲しい。そこにあることが自然であるかのように自分の中に染み入る、そんな作品だってあるということを。
「あひるの空」はヒトが呼吸することくらい無意識的に僕の中に在り、深呼吸するために再読するようなマンガだ。それ故、なぜ好きか? どう好きか? と訊かれても呼吸することに好きも嫌いもないのと同じで、回答に困る質問なのだ。
しかしながら、当然「あひるの空」=呼吸に至るまでには常軌を逸するほどの再読で受けた、何かしらの共鳴があったのだということは分かっている。だから僕は目を瞑り、その様々なシーンを頭の中で呼び起こす。
現実との距離。自分の日常に近い世界。それは「リアル」であるということ。リアルさがもたらしてくれる現実と虚構の対比から浮かび上がる物語性。この作品が、僕を、読者を、惹きつけるのはそこにある「リアル」なのではないだろうか。
スラムダンク世代に生まれた僕は、ずっと『SLAM DUNK』をバイブルとして中高の青春を過ごしてきた。
どこか異世界の、まるでプロバスケットボールを観戦しているかのような高校バスケが作中で繰り広げられていることに薄々と現実とのギャップを感じるも、”花形 透”のフェイダウェイシュートを真似し、”沢北 栄治”の放り投げシュートを真似することでマンガとの距離を縮めようと努力した。
それでも、インターハイに繋がる大会が結局どの大会なのかも分からないまま、僕の最後の夏が終わり、その距離が埋まることはなかった。
マンガにリアリティを求めるなんて……結局はマンガだからな……バイブルを伏せ、そう慰める自分さえいた。
ところが、だ。この作品は違った。こちらから歩み寄らなくてもいいリアリティがあったのだ。
「あひるの空」と出会ったのはバスケットボールはおろか、スポーツから離れて10年以上も経ってからだった。
「”あの頃”がマンガの中にそのまま真空パックされたかのような」
僕の最初の感想はこうだったと思う。惹きつけられたのはそこだった。夢中になって流し読み、気づけば『週刊少年マガジン』の連載に追いつき、そのまま本誌を読み続けることで追い越すこととなった。
リアルたる所以:1 部活動が学校生活の一部であって全てではないから
検索してみると分かるが「これがリアルだから」と思っているファンは、僕だけではないことに気づく。それが僕の戯言だからではないことに少しホっとする。
「あひるの空」は「全然勝てないバスケマンガ」と巷では言われているのはご存じだろうか? 「そこがリアルだ」と主張する読者もいる。
たしかに、主人公”車谷 空”の在籍する九頭龍(くずりゅう)高校は単行本19巻まで勝ち星を上げることはない。しかも、驚きなのは見方によってはここまでが序章に過ぎなかったりする。
20巻くらいを一区切りに物語を終わりに近づけていくマンガが多いというのに、19巻まで勝ち星を上げないスポーツマンガを僕はこれまで読んだことはなかった。
でもね、これは僕に言わせると「全然勝てない勝たない」という言葉が巷を一人歩きしている感があって、実際には19巻まで勝ち負けを決める試合がなかなか描かれなかっただけなのだ。
九頭龍高校は18巻までで3回しか他校との試合をしていない。リアルたる所以の一つはまさにここにある。
「あひるの空」がそうまでしてなかなか試合を見せないのは、試合に臨むまでの過程に重きを置き、個人の成長と、チームの成長が丁寧に描かれているからだ。
たとえば、あんなことや――
こんなこと――
はたまたこんなことをしてみたり――
あんなことしてみたり――
バスケのシーンがほとんどない巻だってある。
現実でもそうであるように、部活動は学校生活の一部であって全てではない。「あひるの空」は、九頭龍高校の学校生活を描く為にバスケ部にスポットを当てただけに過ぎないのだ。
これこそが「あひるの空」がリアルに映る一つの要素のように、まず僕は思った。
リアルたる所以:2 時間の流れがリアルだから
気づいたのは本当に随分最近だった。「SLAM DUNK」が実は”桜木 花道”が湘北高校に入学してからたった4ヶ月の出来事しか描いていないことに。
例えるならば、小学生の時の夏休みの1ヶ月が半年くらいに感じた、それくらい時空のズレを僕の中に生んでいた。
一方で、「あひるの空」は”空”が九頭龍高校に入学し、”空”に後輩ができ、恐らく引退するまでが描かれるだろう。つまり、物語の中には3年間という時が存在する。
そこだ。もう一つのリアルに映る要素と言えるのは「時間」なのだ。
これは作者 日向武史先生も「こだわり」として単行本28巻末でこう語っている。
連載当初から掲げてきた一つのテーマにいろんな角度からカメラを当ててここまで物語を紡いできたんだけど、どこかで真逆のことを描かなきゃいけないと、ずっと思ってました。 それはそのテーマの表裏一体な部分で、漫画的にはあまり望まれない…描かなくてもいいことなのかもしれません。 でも描きました。 悩んで悩んで、葛藤しながら作業していたことが絵や演出的なものに思いっきり出てしまっていて、 正直自信を持ってお薦めできる巻ではないです。 ただ、漫画の中であまり時間を飛ばさずに『一年』を描いてきた甲斐があったとも思う、そんな28巻。
「あひるの空」は時間を丁寧に刻んでいるのだ。それを読むことでリアリティのある学校生活が作中で送られているように感じる。
僕はたまに「季節合わせ読み」というものを実行する。その時の季節に合わせて読みだす単行本をチョイスし、実際の暑さ、寒さ、景色を感じなら読むのだ。時には敢えて外で読んだりもする。
今の時期(記事執筆時期2019年7月)だったら「あひるの空」13巻あたりをチョイスする。
春夏秋冬が描かれた「あひるの空」ならではの読み方ではないだろうか。
リアルたる所以:3 匂ってきそうな空気感
最後にココは強く主張したい。もっとも「あひるの空」のリアルな世界観を創っている要素は「空気感だ」ということを。
前述した通り、学校生活の切り取りが、時間の刻み方がそうさせているのはもちろんだが、バスケットボールの描写に至っては、体育館の匂いや汗の匂いまで漂ってきそうなくらい、作中の空気感は懐かしさを生み出す。
この空気感を創り出しているのは、読み流して片目に入るくらいのちょっとしたコマで描かれる”バスケ部あるある”が起因するのではないだろうか。
ーー体育館へ行くための渡り廊下。内と外を繋ぐ特殊な空間は、バスケ部のみならず、ここを通って来た人には一瞬で懐かしさを生む。
「あひるの空」では渡り廊下が結構描かれてる。渡り廊下はそうした効果を狙ってるのかもしれない。
――これは他校での試合のギャラリーの様子。
学校によっては人が通るには不十分なことが多く、それはそれは雑然とする。僕なんてギャラリーまで梯子で登らされたとこもある。しかも、大荷物を持って、だ。
――このシューズの埃を手のひらで拭う仕草は、誰に教わるわけでもなく、気づくと僕もやってた。
そのあと、キュッキュッとバッシュを鳴らし、グリップを確かめるわけだが。そこまで描かれていないこの一コマでも、その先の映像が脳内に流れる。
――スコア付けたり、タイマーやったりのテーブルオフィシャルの様子。
試合前の慌ただしい感じはあるあるで、これ見ただけで試合開始前の緊張の帯がキュっと締められる。
――これもあるある。ついつい色んな事考えちゃって得点の入れ忘れしちゃうんだよね。
このようにさり気無く配置されたコマが試合の臨場感を読者に呼び覚まし、気づくとその空気に飲み込まれていく。バスケットボール経験者であるなら、なおさら、だ。
このコマなんか、読んでて本当に空気が震えた。
そして、日向武史先生は遂にそんな読者の気持ちを見透かすように、こんなコマを描いてしまった。
これは「あひるの空」ファンにはおなじみのコマだろう。
このコマに触れた時、恐らく電車の中だったと思う、思わず立ち上がりそうだったのを思い出す。
高揚感、緊張、期待、不安、興奮・・・自宅の玄関を開けると感じる、何とも言えないその日の朝の空気の匂いは、誰しも一度は嗅いだことのある匂いであるにちがいない。
日向武史先生は、もはや空気をも操る「エアエアの実」の能力者なのかもしれないと思っている。
僕のオススメは42巻と43巻
2019年、この作品は15年周年を迎えた。それほどの長い時間に渡って支持される作品となっているのは、「あひるの空」を読み、真空パックされた誰しもにある青春の中高6年間の記憶に数ミリの切り目を入れられるからだろう。
そこから漏れ出た記憶は、青白い光に惹きつけられる蛾のように、離れられなくなるのだ。そんな中毒性のあるマンガが「あひるの空」なのである。
「あひるの空」を語り出すと、僕はこんな風に過呼吸になってしまう。これはもう病気だと自覚している。だからそろそろ深呼吸をしよう。最新刊を鞄のお供に、いつでもあひるの空のリアルに触れられる一日をまた始めよう。
ちなみに、僕のオススメは42巻と43巻で繰り広げられる”九頭龍高校 VS 藤沢菖蒲高校 戦”です。
重要な戦いは「あひるの空」に限らず長く描かれがちだったけど、2冊完結でコンパクトにまとめられていながら、「あひるの空」の真髄を、また稀代のストーリーテラー日向武史先生の技を味わうには十分なボリュームだ。
2019年10月にアニメ化を控えた今、手に取ってみるには絶好のタイミングではないだろうか。
そうだ。
これについても語らせてもらってもいいだろうか。
アニメ「あひるの空」といえば豪華キャストで続々と発表があることで話題を集めており、オープニング主題歌はなんとthe pillowsなのだという。
the pillowsってね、日向武史先生は、かねてからファンであると公言していたロックバンドでね、書き下ろし楽曲というのだから、「あひるの空」のファンにとっても一緒になって祝すべき出来事なのである。
さらに、キャラクターデザインも続々と公開され、宿敵”横浜大栄高校”の主要キャラクターである”白石 静”が公開されたことから、長期放映が確約されたようなもので。
つまり、「SLAM DUNK」で起こった第一次バスケブームに次ぐ、第二次バスケブーム到来を予感させ、つまり、つまりよ、”スラムダンク世代”ならぬ、”あひるの空世代”がこれからのバスケ界を支えるなんてことが起こりうる、その始まりが来る2019年10月!カモン!カモン!オクトーバー!!!
あっ、深呼吸、深呼吸・・・。
【編集部から】あひろてさん、ご応募ありがとうございました。勝つことだけじゃない、努力するその過程にも負けることにも、そしてその時間を過ごす日常にも物語はある。そう思うと自分自身の今にも意味があるんだなって本当に実感しました。そんな気付きを与えてくれるような次回の記事もお待ちしています!