突然ですが、最後に実家に帰ったのはいつですか?
県を跨ぐ移動が難しく、もうずいぶん地元に帰っていない、両親と会えていないという人も多い昨今。育った家のほっとする感じが懐かしい、子供の頃に食べたあの店のご飯をもう一度食べたい、そんな思いを抱えている人も多いのではないでしょうか?
夏を舞台にした郷愁あふれる物語、『水域』はこんな時だからこそ読んで欲しい作品です。
「水域」とは?
『水域』は漆原友紀先生による上下2巻の作品。日本の夏の美しさや儚さ、誰も行ったことも見たこともないけれどなぜか心の中にある「あの故郷」を思い起こさせる物語です。
始まりはとある夏。中学3年生の主人公は体育の授業中に意識を失い、そこで不思議な夢を見ます。夢で見たのは、降り止むことのない雨と、美しい川が流れる小さな村と、村に住む少年とおじいさん。なぜか懐かしさを覚えるそれらとの出会いは、やがて主人公の母親や祖母、祖父がずっと胸にしまっていた秘密へとつながります。
おばあちゃんの思い出や母親の言葉、夢の中で覚えた既視感など、全てのピースが少しずつ寄り添い、全てが1つの流れに集まるラストは美しいのひとこと!夏を舞台にしたミステリーとしても楽しめる作品となっています。
繊細な筆致で描かれる透き通った世界観
この作品の魅力の1つは、独特な静けさを持つ世界観。インパクトの大きいコマや刺激的なセリフは多くないのですが、だからこそ精神の奥深くにゆっくりと沈んでいくような読書体験が味わえます。
作品の世界に没頭できることはマンガの醍醐味の1つ。全2巻と短めの構成ではありますが、だからこそ始まりから終わりまでがまっすぐな線で導かれており、混じりっ気のない作品世界にひたることができます。
夢の中で描かれる小さな村の山や川、回想シーンで登場する戦前の日本の着物や兵隊服、現代日本のある意味で最もふるさとっぽさのある地方都市のビルや住宅街。それらが織りなす郷愁が胸に染みわたります。
作品の中の言葉を借りると「うまく言葉にできない」のですが……きれいな川の底にゆっくりと潜っていくような感覚を味わって欲しいです。
誰の心にもある日本の原風景
絶対に言わせてほしい『水域』の魅力は「郷愁」!言いかえれば、自分の故郷を想う心です!読めば必ずどこかのシーンで「懐かしい」と感じるはずです。
作中に登場する多くのものが、日本人の心のどこかにある故郷を思い出させるでしょう。それは川で釣った魚だったり、子供が川に飛び込むレンガづくりの橋だったり、すこし奥まったところにある神秘的な滝だったり、たとえ自分の目で見たことはなくとも、なぜか知っているあの故郷のことです。
そこで浮かび上がる感情は、きっとあなたも知っている感情。部活の帰りにいつも寄ったコンビニに大人になってから訪れた時に、子供のころによく買っていた駄菓子をスーパーで手に取った時に、かつてむさぼるように読んだマンガを実家の押入れで見つけた時に、あなたも味わったことのあるあの感情です。
自分を育ててくれた何か、自分という人間を作ってくれた何かへの想いを、この作品から受け取ってみてください。
「自分とは誰か」への答え
ここからはかなり私見の濃度が濃くなるのですが……『水域』は今の時代だからこそ読んで欲しい作品だと思っています。
その理由は「自分とは誰か?」という問いが、作品の奥底に流れているから。作中で描かれるかつてあった故郷、いま居る地方都市、それらは「自分はどこから来てどこへ向かうのか?」と問いかけていると思うからです。
この問いは今ますます重要になっていると思います。テレワークや副業、転職活動を経験して「そもそもなんのために働いているんだ?」「人生で何がしたいんだ?」と疑問をもった人も多いでしょう。
この作品が明確な答えをくれることはないものの、自分自身の原風景を思い出す大切さ、原点を振り返ることの大事さはきっと伝わってくると思います。
いまこの時代に、『水域』を読んでみてはいかがでしょうか?