「AKIRA ART OF WALL Katsuhiro Otomo × Kosuke Kawamura AKIRA ART EXHIBITION」プレスリリースより
SFというジャンルでマンガを分類してはいけない。そう思っていました。マンガという創作物が人の手で産み出されたものであるなら、無から有を産み出すというそのクリエイティブ行為自体がSFですし、仮に人でない何かがマンガを描いているのなら、それはもう紛うことなくSFです。SFは常に自由であり、ジャンルで縛っていいものだろうか。そんな小さな悩みがいつも頭の片隅にあったのです。
宇宙、時間、現在、過去、未来。人、家庭、日常。冒険、戦闘、恋、笑顔、涙。わたしたちを取り巻くあらゆるものはSFマンガの題材となり、時に心躍るエンターテインメントに、時に胸締め付けられるサスペンスへと才能ある人の手によって昇華されます。
…学校に転校してきた影のある少女との1週間だけの恋。セミの声が五月蠅い夏休みの公園の、あの瞬間を忘れない。
もしそんなマンガがあったとして、そこにはロボットもタイムリープも転生も何もない淡淡とした日常だけだったとしても、読む人の心をときめかせてくれたら、読む人がその読書の瞬間、夢心地になれるのなら、それはやはりSFです。
良くも悪くも人の心を虜にする力を秘めた作品、それらはすべてSFなのです。
目次
- AKIRA 1982年〜 週刊少年マガジン
- 攻殻機動隊 1989年〜ヤングマガジン海賊版
- DEATH NOTE 2003年〜 週刊少年ジャンプ
- 風の谷のナウシカ 1982年〜 アニメージュ
- 彼方のアストラ 2016年〜 週刊少年ジャンプ
- SFの明日は
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AKIRA 1982年〜 週刊少年マガジン
✍️ 大友克洋
新型爆弾による世界のリセットから始まる物語は、『AKIRA』がポストアポカリプス物としての立ち位置にいることを示していますが、それはありきたりな終末世界ものではなく、滅びと再興の繰り返しを描きながら、その滅びの切っ掛けとなる力を得た者、復興への情熱を盲目的に抱く者、登場人物全員が陰と陽と狂気を重ね持つ人間のアイロニーがその根底には存在します。
かつてゴジラが庶民は抗うことの出来ない圧倒的力=戦争と、民の言葉を聞かぬ荒ぶる神のメタファーとして登場したように、本作品での「ネオ東京」は、その滅びをおそれる人間自身の権化のメタファーとして描かれました。作中に描かれる「AKIRA」を恐れ慌てふためき醜く封印した檻のように、ネオ東京も復興という見えない圧力から溢れ出す恐怖に背中を強く押され、醜く都市を造り続けているのです。
強烈で緻密な画力で描かれる、友情と変革する世界そして超能力とSF。日本漫画界のみならずハリウッド映画までにも大きな影響を与えた最高の漫画作品、読むべきエンターテインメントの全ての要素が含まれた、知るべ日本漫画作品の堂々たる金字塔、それが『AKIRA』です。
アニメーションとしてのリメイク&リブートが発表され、延期にはなっているもののハリウッド実写版の動きも着実に進んでいる『AKIRA』。それらの公開時に、大友克洋先生の新作が読めることを今から夢見て待ちましょう!
超能力、軍、暴力、ドラッグ、宗教、オリンピック、SF、軍事衛星、ボーイミーツガール、フライングプラットホーム…数多くのビッグワードやガジェットが世界を彩り、読む者の感性をトリップさせる『AKIRA』。かつて大友克洋先生のそんなサイケデリックSFマンガを週刊で読めた時代が、ホンの38年前にはありました。
そこでしか読むことの出来ない特別なマンガ、特別な絵、そこで体験出来る特別な時間。それがSFマンガです。
攻殻機動隊 1989年〜ヤングマガジン海賊版
✍️ 士郎正宗
まだ日本にインターネットが上陸していなかった時代、アニメーションの世界では『MEGAZONE23 III』で、そしてマンガ作品では『攻殻機動隊』によって来たるべきネットワーク社会の姿が描かれていました。現代では当たり前になった「繋がり」が社会にどのような変革をもたらすのか?
当時の読者は『攻殻機動隊』をSF設定が詰まった(それは正解なのですが)マンガとして目にし、今の読者は『攻殻機動隊』を一部を予言の書として捉えることが出来るかもしれません。
ビジュアルやガジェットからサイバーパンク的世界観としてフォーカスされることも少なくありませんが、作品を読み解いていくと、ヒトの本体は何か?ヒトの身体が機械化され、その記憶さえデータとして移動できるようになった時、「オリジナル」のボディが失われてもなおそれはそのヒトであるのか?ネットワークの中でデータとして生きることが可能になった時、それは幸せなのだろうか…といった言外の問い掛けに思わず息を吞んでしまいます。
人間は、何をもってして人間なのでしょうか。魂が存在するのなら(それを本作では「ゴースト」と呼びます)、肉体とは器に過ぎないのでしょうか。
浴びせられるような情報量、次々と要求される理解力。映画『ブレードランナー』から明確に掲示されはじめ、『AKIRA』の時代から囁かれ始めた退廃した未来感、その描写。
薔薇色の未来!圧倒的科学力!(ナチをメタファーにした)支配層からの抑圧!といった判りやすい活劇から、それは80年代を境に大きく変化しはじめたのです。未来は一つではなくバリエーションに富んでいる。そう気付かせてくれる作品でした。
あの時代、飛び抜けてSFだった『攻殻機動隊』は、38年の時を経てなお今でクラシックには及んでいません。『機動戦士ガンダム』をテレビで見た世代がカーデザイナーになりその外見に大きな影響を与えたように、本作を読んだ世代が今、インターネットでのイノベーションを牽引しています。
素晴らしい作品は未来への種を蒔きます。発刊から数十年後、この現実社会に影響を与えるマンガ。そんな未来への道を開く作品に、もっともっと出会いたいと願っています。
読む者の運命さえ決定づける予言の書、それがSFマンガです。
DEATH NOTE 2003年〜 週刊少年ジャンプ
✍️ 原作:大場つぐみ 作画:小畑健
読者が、SFマンガに求めるものは概念だけではなく、力やシステム、そして魅力的なアイテムです。本作の『DEATH NOTE』はまさにソレでした。名前を書くだけで相手を殺すことが出来る、たったそれだけ、極めて卑怯で残虐な文房具。ノートという、数多の小中学生が必ず持ってる身近な道具と同じ姿形。だからそこから湧き上がる想像は強烈でした。
名前を書くだけで殺せるというアイディアに圧倒的リアリティを与えたのが頭脳戦・心理戦です。ノートに記されているルール自体が物語の伏線であり解答になっているところも魅力でした。ルールという形で、予め物語を展開を予告していたのです!
新世界の神を目指す夜神月がデスノートを使って振りかざす「正義」は、これまで数多くのマンガで描かれてきた「正義」とは質が異なりました。
正義とは正しく良いことであり、その先には万人が幸せになるという目的が存在します。その為の犠牲は、主人公、そして主人公の脇に立つ人々に限られるのが一般的でした。ですが『DEATH NOTE』では、目的は同じでも、正義を成す為には人の命は選別されて然るべきであるという思想が存在します。惨殺を肯定する独善的正義という新しい概念です。特にその惨殺相手を凶悪犯罪者に置いたことで、行為の悪辣さが揺れ作中でもキラに対しての意見が分かれた様に、読者の間でも意見は分かれました。そしてそれこそが『DEATH NOTE』人気の根源であり、ムーブメントの理由でもありました。人の考えは一つではない、多様性を『DEATH NOTE』は武器にしたのです。
絶対的なものは、今や存在しません。価値を認めることが物語の幅を極端に広げるチャンスになる。本作はそれに気付くきっかけになりました。
視点の広がり、気づきの大切さ、価値観の幅。それがSFマンガです。
風の谷のナウシカ 1982年〜 アニメージュ
✍️ 宮崎駿
どう転んでも作品はそれを描いた作者のものです。エンターテインメントは大前提ですが、おめでとう!絵を描く才能に恵まれた人、物語を構築する力を得た人は、作品に創造主である作者のメッセージを込める権利を所有しているのです。
あとはそれがエゴとして匂わないように、普遍的なメッセージとして伝わるように周到に。そうメッセージを伝える手段が大事です。
富のために自然を穢し、戦争によって人類が科学文明を失ってから1000年後の物語。『風の谷のナウシカ』は痛烈な文明批判と反戦意識を持って幕を開けます。それでも作中で戦いは続き、”魅力的”な戦闘機械がいくつも登場します。人を殺す戦争という行為と、人を殺す兵器という方法は区別されているんです。それこそが手段でした。
戦いは無意味だ!人は自然とともに暮らしていくのは幸せなんだ!という主張があるとして、それを読者に強く感じて貰う単純は手段は、戦争を描き、荒れ狂う自然の力描くという対比を用いることです。戦争の恐ろしさ無意味さを伝えるには戦争を描くしかない、という強烈な皮肉と矛盾。そしてその戦争は、機械をこよなく愛する絵の天才・宮崎駿先生の手によって、瞬きを許さないほど優雅にダイナミックに残酷に描かれます。
作者のメッセージとは勿論主人公が声高に叫ぶ言葉でもありますが、そこに説得力を持たせるためのテクニックとして、エンターテインメントの殻を被り、誰も真似出来ない素晴らしい画力で物語を紡ぐのです。
『風の谷のナウシカ』は素晴らしい「絵」とその才能を持った人だけが携えることを許されたメッセージが込められた作品です。その「力」を持とうという野望、それ叶えるの為に必要な事はまず、ペンを取ることです。
伝えたい事がある。その為に描く。それがSFマンガです。
彼方のアストラ 2016年〜 週刊少年ジャンプ
✍️ 篠原健太
SFの名著「ハローサマー、グッドバイ」での作者の言葉を思い出します。
これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにもっとほかの多くのものでもある。
数多くのファクターを持ち、それぞれに思慮深くそれぞれが有機的に繋がり、物語はDNAのように螺旋となって繋がっていく。SFならずとも、読者を夢中にさせる作品とは少なからずそういう要素を持っているのではないでしょうか。
このマイクル・G・コニイの言葉を借りるとしたら
『彼方のアストラ』 は冒険マンガであり、サスペンスマンガであり、SFマンガであり、さらにもっとほかの多くのものでもある。
と、まさにSFの権化といっても過言ではない様々な要素に満ち溢れた作品です。
最近ではやや廃れつつあったジャンプのスローガン「友情・努力・勝利」を明確に形にし、そして何より見事なフィナーレ(とフィナーレに到達するまでの展開)の素晴らしさは、作品が「終わる」ということがこんなにも美しいことなのかと改めて教えてくれます。
さんざ盛り上がって宿敵を倒してそれから数年後、新たな脅威が再び地球を狙っていた!なんてよくある展開に、大好きな物語が続く嬉しさ反面、今までの手に汗握る最高潮の展開は何だったんだろうとなんだかモヤモヤする気持ちが相反することは少なくありません。
SFマンガというジャンルだからこそ手に入れた様々な要素を使い、これでもかとたたみかけてくる仕掛け、伏線と回収、物語性、それらが交わる素晴らしい帰結までのカーヴ。愛する作品が終わってしまう悲しみを超える満ち溢れる感動と満足。
SFは何でも出来る、だからこそ、その与えられた自由をいかに活用し物語を産み出すのか。
自由の行使の能力が問われる。それがSFマンガです。
SFの明日は
小難しい人はいます。レッテルを貼ることに生きがいを感じてる人もいます。SFを定義づけたくて仕方ない人がいます。大学のSF研では日夜SFの定義についてファミリーレストランで徹夜で論争しています。
SFがScienceFictionならば答えは簡単かもしれませんが、SpeculativeFantasyの略だと唱える説もありますし、ファーストヲタクの世代はセーラー服の略だと言って聞きませんでした。アニメーションがアニメとして独り立ちしたように、ScienceFictionは日本に上陸し、日本の創造力を吸収し「SF「として独り立ちしたのだと確信しています。
わたしたちが想像力を持って創造するもの、それらはすべてSFと名乗る資格があります。
もっと自由に、SFマンガを楽しんで下さい!
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