エコール・ド・プラトーン
永美太郎著
コマ投稿OK
エコール・ド・プラトーンのコマ投稿一覧
エコール・ド・プラトーン
たっ むしゃむしゃ 谷崎君ではないか… お久しぶりです先生 谷崎潤一郎(38)小説家 耽美派の巨人
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十年前の政州遊学 モスクワ芸術家へ 最先端の芸術を学びに行った コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー博士! アントン・チョーホフ「櫻の園」マネシム・ゴーリキー「どん底」 演出の精神を 役者の魂を 演劇の芸術を 日本にー!!
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…… あれ? 直木さんだ これはお久しぶり 芥川龍之介(31)小説家。 文壇の麒麟児。久米正雄とは 同級の同門だが、 その天才により文芸的評価では 常に上をいっていた。
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私はいずれ 小説を書くつもり もう数だけでは 救われなくなってしまった 川口さん …… あなたはどうなさるの 私は…… 私が小説家になれたらどんなに …でもそりゃ夢みたいな話ですよ では、また うつし世を
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あの…大地震で家も仕事も何もかもを一焼き尽くされて
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……… せっ 先生!! 一体何の騒ぎですか 新劇の祖・小山内薫(42)
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生きたいんですよ生きるということは書くことだ
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楽苦
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エコール・ド・プラトーン
小説を書きたまえよ
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歌人 岡本かの子(34) どうぞ遠慮なさらないで
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何もかも 燃えてしまった
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三階にいる 若い諸君らよ 皆さんの中にこそ 私どもの仕事の理解者がおられると 信じています 私どもが自由劇場を興した理由 それは 生きたいからであります
エコール・ド・プラトーン
この時 菊池寛は 地震によって住む地を追われ、田端から金沢へ 一時避難していた 室生犀星の家に 仮住まいをしていた。発売直前だった「文藝春秋」九号が 地震の火で燃えてしまって
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「芸術は爆発だ!」て知られる後の大芸術家。
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頼みましたよ ここから生まれる 新しい雑誌は
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川口松太郎(23)自称 劇作家 小説家
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私も生きていたいと
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チョンマゲの真似事だヨ 侍になったつもりで 夜警に精を出しても 結局それが デマゴーグだと わかった頃には 皆 百姓に戻ってしまったね
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プラントン社は 大正十一年(一九二二年)、クラブ化粧品の広告雑誌「女性」を出版するために創業され、中山太陽堂社長、中山太一の実弟である 中山豊三が、プラントンシャの社長に就任した。 この頃、上海などへの海外進出で 発展の一途をたどる中山太陽堂と 歩みを同じくするように、弟の豊三擁するプラントン社も 新事業を仕掛けるー 新しい雑誌の創刊である。時は大正十二年(一九二三年)である。
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直木三十二!? この男、後に直木賞という 自らの名を冠する文学賞が出来るまでに 名を残す人物、直木三十五 その人なのだがー 左様…
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一九二三年(大正十二年) 九月一日、未曾有の大地震が 関東一円を襲う。 死者約十万五千人 家屋全壊約十万九千 全焼二十一万二千余棟…… 出版社や本屋が 集中していた神田周辺も 壊滅的な被害を受けた。失われた書籍は 数百万冊にのぼり、漱石、鷗外亡き後の日本文学も、その例外ではなかったー ここに文学芸術を志す 一人の青年がいた。 名を川口松太郎。 崩壊した東京を後にし、師 小山内薫が移り住んだ 西の都 大阪の地を 一路目指していた。この物語は これより始まるー