おうち時間は学びのチャンス。ひとたび夢中になれることを見つけたら、きっと時間はあっという間にすぎていくでしょう。そんな体験は自宅待機の鬱々とした気分を忘れさせるだけでなく、これからの人生を豊かに生きる財産にもなります。
アルではこれから週1回全4回に渡り、絶対に読んでおきたいマンガの今と昔、そして絶対に憶えておきたいたった一つのこと「マンガって面白い!」をテーマに記事をお届けします。これさえ読めばもうマンガ王になれる!そんな大風呂敷を広げた連作企画、4人のライターが4つの切り口からマンガを紹介します。
第3回目のテーマは「クラシック!」
👉第1回目「王道」:【マンガの面白さを知り尽くす4週間】 絶対に外せない外さない、王道マンガを探す旅
👉第2回目「恋愛」:【マンガの面白さを知り尽くす4週間】 わたしたちの必須栄養素、恋愛マンガに恋をする
目次
- 4大少年誌創刊の歴史!あの作品のルーツはここにある!
- 「週刊少年サンデー」マンガ週刊誌の歴史は小学館からはじまった
- 「週刊少年マガジン」編集部主導のプロデュース戦略
- 「週刊少年ジャンプ」が繰り広げた、さまざまな戦い
- 「週刊少年チャンピオン」編集者たちによる新人発掘
- 名作タイムスリップ!次は未来に目を向けよう
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4大少年誌創刊の歴史!あの作品のルーツはここにある!
第一週は王道作品、第二週は恋愛マンガを紹介しました。
第三週のテーマはズバリ「クラシック」。
今読んでいるその作品にも、ルーツがあるはずです。その源泉を辿る旅にでかけませんか?
今回は、4大少年誌「週刊少年ジャンプ」「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年チャンピオン」から、筆者が選りすぐった作品を4作品ずつ紹介します。ルーツを知れば、マンガライフは倍たのしくなる!
「週刊少年サンデー」マンガ週刊誌の歴史は小学館からはじまった
「週刊少年サンデー」の創刊は1959年3月17日。初代編集長は小学館の豊田きいち氏です。サンデーという名前には「いつ読んでも、日曜のように楽しい気分に浸れて、太陽のように明るい」という豊田氏の思いが込められています。
どこよりも早く週刊少年誌の構想を立てていた小学館は、手塚治虫先生を中心とした「トキワ荘」メンバーの獲得に成功します。
🌞手塚治虫先生『スリル博士』
サンデー創刊号に掲載された手塚治虫先生の作品、それが『スリル博士』です。
「スリル博士」という医者の息子・ケン太が主人公の物語です。
物語はケン太のこんな語りからはじまります。
みなさんこんにちは ぼくケン太です おとうさんはお医者ですが とってもスリラーが好きなんで スリル博士って アダナがあるんです おとうさんだけじゃ ありません 看護婦のメロンさんも 助手のカボチャさんも 犬のジップも みんな大のスリラーファン おかげでぼくんちは 事件のたえまがありません まあ見てください──
ちなみに連載前に手塚先生が候補作として出したのは、『もしも君』という作品でした。「もしも、体のどこかが悪かったらどうするか?」という医療がテーマの、毎週読みきりの連載という案だったそうです。ところが、話が難しそうということでNGになります、
14年後、この『もしも君』は悪役の姿を借りて、『ブラックジャック』として世に出ます。
🌞寺田ヒロオ先生『スポーツマン金太郎』
サンデー創刊の二本柱は手塚治虫先生の『スリル博士』と、寺田ヒロオ先生の『スポーツマン金太郎』でした。
主人公はまさかり...ではなく、バットをかついだ金太郎。ライバルは、あの有名な桃太郎です。金太郎「山ざるチーム」と、桃太郎「川流れチーム」の大試合に向けて、物語は展開します。
ちなみに、本宮ひろ志先生の人気作品『サラリーマン金太郎』のタイトルは、『スポーツマン金太郎』へのオマージュです。
🌞藤子不二雄先生『オバケのQ太郎』
サンデー創刊時の編集長であった豊田きいち氏が寺田ヒロオ先生から強烈に推薦されたのが、藤子不二雄先生でした。
トキワ荘に初めて足を踏み入れた豊田氏が「あの...藤子不二雄先生は、どちらでしょうか」と尋ねると「私が、藤子不二雄です」と(二人から)声を揃えて返ってきた、という逸話があります。
こうしてトキワ荘メンバーを囲ったサンデーでしたが、『オバケのQ太郎』は人気がでず、いったん終了してしまいます。このまま終了していたら私達が知ることもなかったでしょう。『オバケのQ太郎』が今日も知られる作品になる背景には、終了後の読者のハガキがありました。「なんでやめちゃったの」「Q太郎はもうやらないの」という要望が多く届いたのです。『オバケのQ太郎』はいったん消えてから人気が出たんですね。オバケだけに。
🌞赤塚不二夫先生『おそ松くん』
『おそ松くん』は1962年から連載を開始しました。
当時、赤塚不二夫先生は少女マンガ界で活動していました。といっても、赤塚先生に限らず、石森章太郎先生や松本零士先生といった名だたる先生も当時は少女漫画界で活動していました。まだ月刊誌が主流だったマンガ業界ではベテランで枠が埋まってしまうため、新人は少女マンガに活路を見出していたのです。
今となっては、「6人兄弟が主人公」という設定はお馴染みですよね。編集部では、「主人公がはっきりしないのは災いする」と思われていました。
そんな予想を覆したのが、魅力的なサブキャラクターだったのです。イヤミ、チビ太、デカパン等...カタカナ・キャラクターが連発するナンセンス・ギャグにより、「ギャグ漫画」というジャンルが産声をあげました。
それまで青年向けにユーモアやナンセンスを描いた作品はありましたが、子どもたちも声を出して笑える作品、それが「ギャグ漫画」だったのです。
「週刊少年マガジン」編集部主導のプロデュース戦略
「小学館が週刊少年マンガをつくる」。この知らせを受けて動き出したのが、講談社でした。
当初サンデーは1959年5月5日、子供の日に発売される予定でした。これを3月17日にまで前倒しにしたのが、講談社との発売日合戦だったのです。一日でもはやく出版するという講談社の執念の結晶が、サンデーの創刊日と同日、「週刊少年マガジン」という名前で世にでます。
トキワ荘の面々を囲い込むサンデーに対抗するためにマガジンがとった戦略は、編集部が企画を主導する「プロデュース方式」です。
📕ちばてつや先生『ちかいの魔球』
前述したように、当時のマンガ業界では月刊誌のベテランが幅をきかせており、新人は少女漫画で活躍していました。
ちばてつや先生も、その一人です。
マガジン創刊時の編集長・牧野武朗氏は、元は講談社の少女雑誌「なかよし」の編集長でした。牧野氏は、少女漫画時代のツテをたどって、ちば先生を説得します。
『ちかいの魔球』には、ライバル誌であるサンデーの『サラリーマン金太郎』を打倒するねらいがありました。ちば先生はまったくと言っていいほど野球に疎かったのですが、原作者の福本和也先生や担当編集の宮原照夫氏が「魔球を投げる少年」というコンセプトを打ち出します。
原作付き・人間ドラマ・魔球…鋭い人なら気づくかもしれませんが、同じ要素を持つ作品がありますね。
『巨人の星』です。
『ちかいの魔球』は、『巨人の星』のプロトタイプなのです。
『巨人の星』の担当編集者は、同じ宮原照夫氏。魔球のアイデアについては、原作者の梶原一騎先生も、『ちかいの魔球』の影響を認めています、
📕水木しげる先生『ゲゲゲの鬼太郎』
ゲゲゲの鬼太郎といえば、この曲ですよね
ゲッゲッゲゲゲのゲ 朝は寝床でグーグーグー 楽しいな楽しいな お化けにゃ学校も 試験も何にもない ゲッゲッゲゲゲのゲ みんなで歌おうゲゲゲのゲ
この曲を作詞したのは、水木しげる先生です。
1967年に、マガジンに連載しているマンガ家に作詞をしてもらうというコンセプトで、一枚のレコードが発売されました。「少年マガジン主題歌集」です。『ゲゲゲの鬼太郎』の曲は、このレコードに収録されていました。
この曲が、マガジン創刊と同じ1959年から始まったあるメディアによって流行します。ラジオの深夜放送です。
ゲゲゲの鬼太郎の愉快なメロディは、ラジオの深夜放送で大人気になりました。ラジオでの評判を聞いて、フジテレビにてテレビ化をすることになります。
ただし、このときのマンガタイトルは『墓場の鬼太郎』でした。
フジテレビから「墓場」をやめてほしいという要望があり、そこで歌の中にある「ゲゲゲ」を使うことになります。こうして、今の私達に馴染みのあるタイトルになったのです。
📕さいとうたかを先生:『無用ノ介』
さいとうたかを先生の作品は、マンガではなく劇画です。
この「劇画」という言葉の明示は、さいとう先生がマガジンに掲載する条件でもありました。
三代目編集長の内田勝氏は水木しげる先生を先頭に、マガジンの大人向け=劇画路線を進めようとしていました。
さいとう先生は、1960年には「さいとう・プロダクション」を設立し、組織による分業体制で作品をつくっていました。マガジンは原作付きマンガを提唱していましたが、さいとう・プロは独自に組織体制を築いていたのです。
さいとう先生が提案したのは『無用ノ介』。リアルな時代劇を描きました。
脚本の担当は、若き日の小池一夫氏。後に、さいとう先生と共に『ゴルゴ13』の企画をする人です。さらに言えば、さいとう・プロから独立して『子連れ狼』の原作者にもなります。
📕石ノ森章太郎先生・平井和正先生『幻魔大戦』
マガジン躍進を語る上で欠かせないのが、「SFブーム」です。中でも代表的な作品が、1967年に連載を開始した『幻魔大戦』です。
マガジンとSFを結びつけていたのは、早川書房の「SFマガジン」との関係でした。
1961年から石ノ森章太郎先生(当時は「石森章太郎」表記)とSFマンガ『勇気くん』を共作していたのは、「SFマンガジン」の初代編集長・福島正実氏でした。当時、SF小説というジャンルは認知されていませんでした。そこで福島氏はSFを分かりやすく表現することで、裾野を広げようとしたのです。
福島氏の紹介で、マガジンは次にSF作家の平井和正先生という人物と繋がります。1963年には平井和正先生原作の『8マン』が桑田次郎先生の作画によって連載。
ちなみに時を同じくして福島氏(SFマガジン編集長)が「日本SF作家クラブ」を結成しています。メンバーにはSF作家だけでなく手塚治虫先生やイラストレーターの真鍋博先生も加わりました。
そして1967年、平井和正先生と石ノ森章太郎先生の共作による『幻魔大戦』がヒット。同時期に石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』も当時少年キングで1965年に終了してしまったのを翌年から引き継いで連載しており、マガジンはSFブームを味方につけます。
〈この項目に登場する、週刊少年マガジン掲載のSFマンガ一覧〉
連載開始年 | 作品名 | 作者 |
1961年 | 『勇気くん』 | 福島正実先生・石ノ森章太郎先生(※) |
1963年 | 『8マン』 | 平井和正先生原作・桑田次郎先生作画 |
1966年 | 『サイボーグ009』 | 石ノ森章太郎先生 |
1967年 | 『幻魔大戦』 | 平井和正先生・石ノ森章太郎先生 |
※1984年まで「石森章太郎」表記。
「週刊少年ジャンプ」が繰り広げた、さまざまな戦い
1968年、サンデーとマガジンという二大誌に殴り込みをかけるようなかたちで創刊したのが、集英社の「週刊少年ジャンプ」でした。人気作家は他誌に持っていかれている状態でジャンプがとった戦略は、「新人採用」と「雑誌内競争」です。
まず、新人を専属制度で囲むことで「〇〇先生の作品が読めるのはジャンプだけ」というブランドができます。また読者アンケートによる雑誌内競争をすることで、読者が読みたい作品が残ります。ジャンプがとった戦略は、とても合理的なものでした。
💨永井豪先生『ハレンチ学園』
ジャンプ創刊から連載し社会現象にまでなったのが、『ハレンチ学園』です。
それまでのマンガにはなかった性描写が物議を醸し、作中の教師批判ともとれる設定も手伝ってPTAや教育委員会から多数の苦情が寄せられます。(もっとも、永井豪先生自身はとても飄々とした好青年で、実際に会うと評判は良かったとか...。)
『ハレンチ学園』は、子どもたちにとって性に対する興味を代弁する作品でした。
手塚治虫先生は『ハレンチ学園』について、自著でこう語っています
教師は聖職である──この常識的な通念をひっくり返したのが、永井豪さんの描いた『ハレンチ学園』というマンガでした。 あまりにも破壊的な、退廃的な教師像に、大人たちはこのマンガに対して非難と怒りをぶつけました。 ところが、子供たちは逆にこのマンガにとりつかれ、人気は絶大で作者はいちやく売れっ子になりました。 そして、この作品によってマンガは新感覚時代に突入したとさえ言われています”
ハレンチ学園のラスト(第一部)は、主要キャラクターがほぼ全員死ぬという壮絶な終わり方をしています。それが、「ハレンチ大戦争」です。
作品と教育関係者の戦いを、ハレンチ学園と大日本教育センターの戦いとして、メタフィクションで描いたのです。
💨遠崎史朗先生(原作)中島徳博先生(作画)『アストロ球団』
スポーツマンガで超人的な能力を描いたのが、この『アストロ球団』です。
人間が20メートルも飛び上がってホームランを受けてみたり、試合の中でデスマッチを繰り広げるなど、エンターテイメントに徹した作風で人気を博しました。
この作品の人気が、以後ジャンプに登場する「バトルマンガ」ジャンルの先駆けとなります。
💨武論尊先生(作)原哲夫先生(画)『北斗の拳』
武論尊先生は、ジャンプの看板作品(『男一匹ガキ大将』)を描いていた本宮ひろ志先生の自衛隊仲間でした。本宮先生のもとに居候していた武論尊先生にマンガの原作を書くように勧めたのは、のちに三代目編集長となる西村繁男氏です。
80年代前半のラブコメブームの最中、ジャンプは『北斗の拳』をはじめとする破天荒なバトルマンガの路線で攻めていました。そして80年代後半には、時代がジャンプに追いつきます。ジャンプ独自の破天荒路線が台頭してきたのです。
西村氏は自著の中でこう語っています
まさに北斗の一撃は、ラブコメを粉砕したと思う”
💨鳥山明先生『Dr.スランプ』
鳥山明先生を発掘したのは、のちに六代目編集長となる鳥島和彦氏でした。
鳥島氏は、1978年、漫画を描きはじめたばかりの青年による投稿作品『謎のレインジャック』に目をつけます。その青年に他の漫画も投稿するように伝え、誕生した読み切り作品が『ワンダー・アイランド』でした。この際に鳥島氏は500ページ分のボツを出しています。
次の作品で鳥島氏は、女性を主人公にしたマンガを描くように提案します。
そこで『ギャル刑事トマト』が読者の評価を得て、連載が決定。1980年に『Dr.スランプ』の連載が開始します。
ドクターマシリトの口癖である「ボツ!」は、500ページ分のボツを出した鳥島さんをモデルにしたものです。
「週刊少年チャンピオン」編集者たちによる新人発掘
『週刊少年チャンピオン』が週刊少年誌に参入したのは、マガジン・サンデー・キング・ジャンプに続き、5番目でした。
当時のサンデーやマガジンの売れ行きを見て、秋田書店の創業者であり社長、秋田貞夫氏は週刊少年誌への参入を決めます
創刊時は永井豪先生や赤塚不二夫先生、さいとうたかを先生といった大御所の作品がズラリと並びました。
ところが、二代目編集長・壁村耐三氏のときに事件が起きます。それまでの連載を、ことごとく終わらせていったのです。チャンピオンはあくまで少年誌であるとし、編集者を「子供の目線になれ。俺が責任をとる」と鼓舞しました。
こうしてチャンピオンの作品群には大きな風穴が空き、代わりに編集者(※)の審美眼が反映された、独自路線を歩みます。
※終わりに、この記事に登場するチャンピオンの編集者を一覧にしてあります
👑山上たつひこ先生『がきデカ』
のちに三代目編集長となる阿久津邦彦氏が目をつけたのが、山上たつひこ先生の『喜劇新思想体系』でした。
阿久津氏がつくりたいのはギャグ漫画でしたが、山上先生は『刑事コロンボ』のようなマンガを書きたかったそうです。壁村編集長に相談すると「少年誌でオッサンが主人公のマンガなんかできるか!」と突き返されます。
そこで何度も話し合いを重ねてできたのが、『がきデカ』でした。
日本初の少年警察官と自称する主人公「こまわりくん」のセリフ「死刑!!」は、流行語にもなりました。
『がきデカ』では、それまでのギャグ漫画では初となる「ボケとツッコミ」を採用しています。大阪府育ちの山上先生らしい、笑いの演出です。
👑浜岡賢次先生『浦安鉄筋家族』
他の出版社でボロカスに言われていた浜岡賢次先生が最後に持ち込んだのが、チャンピオンでした。のちに八代目編集長となる樋口茂氏に「また違うの描いたら持ってきてヨ」といわれたのをきっかけに、毎週金曜日にネームを持っていくようになります。当時、浜岡先生は17歳でした。
樋口氏はのちのインタビューで「持ち込みに来られるマンガ家志望の方々のどこを一番見ているのか?」という質問に「情熱です」と答えています。毎週ネームを持ってきていた浜岡先生には、まさに「マンガ家になりたい」という情熱がありました。
浜岡先生が『浦安鉄筋家族』を連載するのは、『4年1組起立!』という連載が終了した後でした。
『4年1組起立!』の打ち切りを言い渡したのは、のちに六代目編集長となる岡本三司氏。放任主義といつも酔っ払っている様子から、愛着を込めて「秋田の無責任男」と呼ばれていた人物です。作中に登場する「王様」は、岡本氏の口が悪いところを研究して誕生したキャラクターでした。
👑鴨川つばめ先生『マカロニほうれん荘』
ほかの出版社で専属契約をしていた鴨川つばめ先生ですが、縛りが厳しかったため、秋田書店にやってきます。
その作品の面白さを確信したのが、『がきデカ』でも登場した阿久津邦彦氏でした。ちなみに阿久津氏は「ギャグはその人から生まれるもの」とし、ギャグの作家さんには打ち合わせをあまりしなかったそうです。
それまでのギャグ漫画では、唐突な展開の前にも最低限の説明描写がありました。けれど、ストーリー度外視で面白いものを自在に詰め込んだのが、この『マカロニほうれん荘』なのです。
ちなみに、お笑いコンビ「キャイ〜ン」のコンビ名は、この作品中のキャラクターのセリフから来ています。
👑板垣恵介先生『グラップラー刃牙』
別雑誌で『メイキャッパー』を連載していた板垣恵介先生に目をつけたのが、のちに九代目編集長となる沢考史(さわ・たかふみ)氏でした。
沢氏は、当時珍しかった東大卒のマンガ編集者でした。先輩の樋口氏(浜岡賢次先生の初代担当)と板垣先生の格闘技の話題についていけず、帰りに悔し泣きをします。そこから独学で格闘技の勉強をし、2ヶ月後には板垣先生から「あんなに格闘技詳しかったっけ?」と言われるまでになります。
板垣先生は、『グラップラー刃牙』のネームがすでに編集部に通っていたにも関わらず、自ら書き直します。勝つ連載にするためにはクライマックスからはじめなければらならない...空手の決勝戦からはじまる第一話は、板垣先生の覚悟の書き直しから誕生しました。
〈この項目に登場する、チャンピオンの編集者たち〉
歴代 | 名前(よみ) | 功績 | 異名 |
二代目編集長 | 壁村耐三(かべむら・たいぞう)氏 | チャンピオンに革命を起こした | ミスターチャンピオン |
三代目編集長 | 阿久津邦彦(あくつ・くにひこ)氏 | 山上たつひこ先生『ガキデカ』、 | 天才・阿久津 |
六代目編集長 | 岡本三司(おかもと・さんじ)氏 | 『浦安鉄筋家族』誕生の立役者 | 秋田の無責任男 |
八代目編集長 | 樋口茂(ひぐち・しげる)氏 | 浜岡賢次先生の発掘 | 週チャンの父 |
九代目編集長 | 沢 考史(さわ・たかふみ)氏 | 『グラップラー刃牙』の初代担当 | 涙の努力家 |
名作タイムスリップ!次は未来に目を向けよう
「面白い作品が読みたい!」という私達にとって、クラシック作品は賢い選択です。名作は人間の深い部分を描いているため、時代をこえて訴えかけてくる部分がありますよね。たとえクラシックな作品であっても、はじめて知ったのならそれはあなたにとって新作!温故知新の旅に出かけてみてください。
4週に渡ってお送りしてきた「マンガの面白さを知り尽くす4週間」。
最終回となる次回のテーマは、これからのマンガ史に名を残すであろう「注目の最新作」です。時代が変わればマンガの王道や恋愛も変わるはず。次に来る...言わば未来の名作をご紹介します。
〈参考文献〉
・サンデーとマガジン〜創刊と死闘の15年〜 大野茂 光文社新書 2009
・「少年ジャンプ」黄金のキセキ 後藤広喜 集英社 2019
・さらば、わが青春の『少年ジャンプ』 幻冬舎文庫 1994
・チャンピオンズ〜週刊少年チャンピオンを創った男たちの物語〜 魚乃目三太 少年チャンピオン・コミックス 2020
・漫画の歴史 清水勲 岩波新書 1991
・オタク学入門 岡田斗司夫 新潮OH!文庫 2000
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