3月のライオン、ふたりエッチ担当編集が語る「形を決めない」仕事術

マンガ編集者さんって、本当にいろんなタイプの方がいらっしゃいます。それぞれヒット作を世に送り出すための仕事術に個性があり、お話をお聞きするのが本当に面白いんです。

「編集者インタビューリレー」Vol.6のインタビューでは、白泉社 第三編集部 部長の友田亮さんに話を伺います。

「ヤングアニマル」創刊時から編集部に参加し、『ふたりエッチ』や『3月のライオン』といったヒット作を担当。

その後に「花とゆめ」の編集長を経て、現在は部長業務の傍ら『3月のライオン』の担当編集業務や「ヤングアニマル」表紙グラビアの責任者をされています。

幅広いジャンルの作品を担当してヒット作を送り出し、編集者として順調にキャリアを積んできた背景を友田さんに聞くと、編集者として大切にしているというある考えに行き当たりました。

連載のVol.5はこちら。「月刊コミックアライブ」編集長であり、異世界モノを扱うWebマンガサイト「異世界コミック」と女性向けファンタジー作品のWebマンガサイト「FLOS COMIC」を立ち上げた松井健太さんにインタビューを実施しました。

編集者さんのプロフィール

友田亮
1992年白泉社入社。入社以来、一貫して編集職。「ヤングアニマル嵐」、「花とゆめ」の編集長を経て現職(ヤングアニマル編集部部長)に。担当した主な作家は、羽海野チカ、克・亜樹、新谷かおる、あかほりさとる、西川秀明、ももせたまみ、林崎文博、甘詰留太、など多数。愛読誌は『週刊ベースボールマガジン』で、中日ドラゴンズファン。趣味は将棋。日本大学経済学部卒。

バブル期に入社し、「ヤングアニマル」創刊時から参加

ーー今日は松井さんのご紹介ということで、よろしくお願いします。まず、編集者になったきっかけを教えてください。

1992年4月入社だから、編集者の仕事を始めたのはもう30年近く前になるよね。もともと本が好きだったんですよ、マンガも小説も好きで。


出版社は就活の候補には入れていたんだけど、本当は広告代理店に入りたかったんです。第一志望が電通で、第二志望が博報堂だった。

ーー編集者になりたいわけではなかったんですか。

要は趣味を仕事にするのはどうなのかと思っていたんです。それで広告代理店を受けて惜しいところまで行ったんだけど、落ちてしまった。


当時は今とはまったく畑違いのキーエンス(編注:大手FAセンサ会社で株式総額は日本有数)という会社に内定をもらっていて、就活もそのまま終わろうかと思っていたんですよ。けれど、就活ってやっぱり人生の節目じゃないですか。


悔いがないように自分の好きなところを受けてみようと思って、出版社を探したら角川書店(現KADOKAWA)と秋田書店、白泉社が募集をしていた。


それで受けてみたら白泉社が採ってくれたんで、悩んだけれど「好きなことをやってみよう」と思って入社したんです。

ーー最初は好きなことを仕事にしていいのか迷っていたけど、結局はその道を進んでみることにした。

会社の規模はキーエンスのほうが大きいし、お金も向こうの方が良いと分かっていたから、偉そうに「こんな小さな会社に入ってあげた」と考えていたね(笑)。


ちょうどバブル入社組だったから、万一辞めても就職先くらいあるだろうと思っていた。今は想像がつかないかもしれないけど、世の中が好景気だとそんな風になるんです。


だから、もちろんマンガはとても好きだったけど「一生の仕事にする」という風にはあまり考えていなかった。好きなことだから、失敗したとしても後悔はしないだろうという感じで。

ーー友田さんは「ヤングアニマル」の創刊時から参加されているんですよね。

1992年5月にヤングアニマルが創刊したから、入社から1ヶ月後だね。入ったら創刊号の校了作業の真っ最中でした。


白泉社の男ものの雑誌って今でこそ立派なラインナップがあるけど、僕が入った頃は全然なかった。会社の中でも「なんで男ものなんかやってるんだよ」って空気でした。


僕自身も白泉社の雑誌だと「花とゆめ」が好きで、当時は『ぼくの地球を守って』とか『動物のお医者さん』が連載していてね。男ものも読んではいたんだけど、つくりたいという意志はあまりなかった。


けれど、配属されてみると現場では一生懸命つくっているから、周りから馬鹿にされるのは悔しいわけですよ。だからなんとか頑張っていたんだけど、全然だめだったね。

ーーなかなかうまくいかなかった。

やっぱりこの業界は当たったもん勝ちで、ヒット作さえ出ればいいという雰囲気だったんだけど、なかなかそれが出てこない。いろいろやったけど難しくて、入社して3〜4年くらいは苦しかった思い出しかない。


けれど、そうこうしているうちに『べルセルク』が日テレでTVアニメになって大ブレイクしたんです。さらに同時期に『ふたりエッチ』のブレイクが重なったんですよ。


そこからガーンと売れ始めて、雑誌の部数もどんどん伸びてという感じでした。「ヤングアニマル」という雑誌が認知されちゃうと意外と楽で、何をやっても結構当たるようになった感じだね。

ーー当時はインターネットやSNSが中心の今と違って、雑誌そのものが作品の宣伝媒体としての機能を担っていたわけですもんね。

藍より青し』とか『ホーリーランド』、その後に『デトロイトメタルシティ』が出てきて、さらに数年後に『3月のライオン』が連載になって。


そういうヒット作が生まれていく流れの中で僕は編集者として順調にキャリアを積んでいきました。10年前に会社から「花とゆめ」編集長の辞令が出て、驚いたんだけど「分かりました」と。


それで3年間「花とゆめ」の編集長をやって、今は「ヤングアニマル」に戻ってきて、部長をしているわけです。

編集者として大切にしているのは「形を決めない」こと

ーー順調にキャリアを積んできたということですが、友田さんはマンガ編集の仕事をどうやって学んでこられたのでしょう?

入社した当時はみんな忙しいから、放っておかれていました(笑)。「マンガでも読んでいて」と言われて、すごい会社だなと思いましたよ。

ーー新人に教える暇もないくらい忙しい現場だったんですか?

正直、その時代に「教える」っていう文化はなかったからね。「勝手に見て覚えろ、分からなかったら聞け」という文化だった。聞いても教えてくれないんだけど(笑)。そんなことばかりだった。


だから印刷所の営業の人とかに「これどうやって入稿するんですか」とか聞いていたよ。先輩から体系的に何かを教わることはなかったなぁ。


そういう環境に僕はすごく腹が立ったんで、編集作業を体系化して後輩たちに教えられる体制づくりを頑張った。習っていないことで失敗して怒られても、腹が立つじゃない。

ーー後輩の方たちが楽になるように。

というより、結局は自分が楽になるためです。自分が楽になる方法はたった一つで、下の人間に育ってもらうことなんですよ。そうすると、その人間が自分の代わりに仕事をやってくれるわけだから。

ーー友田さんご自身はどうやって技術を身につけていかれたのでしょう。

こう言っては何だけど、僕はそもそも読書量が尋常じゃなかった。学生時代、当時の男もののマンガに限って言えば市場に流通しているものの9割は読んでいたと思う。


だから、マンガにおいては知らないことがほとんどなかったんです。小説も同じくらい読んでいて、膨大に蓄積されたデータが頭の中にあったからそれが役に立った。

ーーすごいですね…!

もう一つは師匠にあたる人だよね。先輩社員から何かを教わった覚えはまったくないんだけど、入社して10ヶ月くらいで新谷かおる先生の担当になったんですよ。


この先生が本当にとてつもなく大変な人で、原稿が上がらないんです。最終締め切りが金曜日だったんだけど、ひと月に2回、月曜日の夕方には新谷さんの家に行って、そこから原稿が上がるまで泊まるんです。


そうするとずっと一緒にいるわけだから、先生は広大無辺の知識と面白い語り口でいろんな話をしてくれる。あの経験が非常に大きかったかな。

ーー編集者の先輩ではなく、作家さんから教わるという。

編集者としての度胸も新谷先生につけてもらいました。


本当に締め切りギリギリで、編集長が「もうだめだ」という電話をかけてくるんだけど、徹夜が続いているからこっちもイライラしてて、「うるせー!」って言って電話を切って。そんな感じだった。


本当にそこまで遅いから、他の作家さんを担当するときもビビらなくなるよね。「原稿が遅い」と言っても、新谷先生ほど遅くはないし(笑)。

ーーすごい話ですね…。友田さんは『3月のライオン』のアイデアを羽海野チカ先生に提案されたそうですが、ご自身で作品の企画をしっかり立てるタイプなんですか?

言ってしまえば、その辺は本当に臨機応変なんですよ。話をつくれる作家さんならお任せしちゃう。


例えば『3月のライオン』みたいに将棋の強い孤独な少年の物語という大枠の提案だけをする場合もあれば、『ふたりエッチ』や『3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代』みたいに一話一話しっかり話し合ってつくる場合もある。

ーー物語のつくり方も、新谷先生からお話をお聞きする中で学んでいかれたのでしょうか?

いや、新谷先生と僕は話のつくり方が根本的に違うんですよ。僕の場合は、自分が学生時代に読んでいたものが話のもとになっている。


当時、見ていて面白そうだなと思ったことに対して、「自分だったらどう話を組み上げるだろうか」という考えを、ストーリーという形ではなく細かいエピソードとして持っておくんですよ。


例えばボクシングマンガのネタを考えたけどやらなかったとして、いつか別のスポーツマンガをやるときに使うことができますと。要はすべらない話をいくつも持っているような感じです。

ーーそこも読書量に支えられているんですね。

読書量もそうだし、いろんなものを見て観察することかな。今の人たちはネットでいろんなものを見ると思うんだけど、ネットの最大の欠点は自分の好きなものしか見なくなるってこと。


好きなものだけを見ていたらどんどん視野が狭まっていくので、アイデアに広がりを持てなくなるんです。


ある好きな領域をとことん突き詰めていくやり方もあるとは思うんだけど、僕はそういうやり方はしたことがない。原則、「浅く広く」が自分が編集者の仕事をする上での指針。

編集の技術に関しても、「いつもこういう風にする」という形はない。人によってやり方を全部変えていたし、編集部によっても変えていました。


僕が「花とゆめ」の編集長をやっていた頃、今の「ヤングアニマル」編集長の永島君が僕の1年後に「花とゆめ」に異動してきたときは、僕が二重人格者じゃないのかって真剣に悩んでいたくらい(笑)。

ーーそれは編集者としてやっていることが全然違うということですか?

僕の中では一貫性があるんだけど、永島君の中では「ヤングアニマル」の僕と「花とゆめ」の僕は同一人物と思えなかったんだって(笑)。


「形を決めない」っていうのが、自分の中ではマンガをつくる上で一番うまくいく方法なんだろうね。

作家にパートナーとして信用してもらうことが何よりも大事

ーー友田さんは編集長より上の立場の部長でありながら、現在も『3月のライオン』だけは現役で担当しているんですよね。

そう。それは羽海野さんの希望でもあるし、僕の希望でもある。将棋の話だから他の人が担当するのが難しいというのもあります。

ーー友田さんご自身が将棋に詳しいからですか?

将棋は学生時代から趣味でやっていて、アマチュア3段くらい(の棋力)です。いつかネタになればいいなと思っていたんだけど、将棋が難しいのはよく分かっていたし、なかなか機会がなかった。


それで羽海野さんと知り合ったときに(企画を)振ってみたら乗ってくれたので、連載として進めたわけです。

ーー難しいというのはマンガのテーマとして?

将棋自体が難しいから、普通の人はプロの対局を見てもすごさとかさっぱり分からないよね。


プロの手のすごさはアマチュア3〜4段くらいになってやっと意味が分かると思う。そこをマンガに翻訳するのは本当に難しい。『3月のライオン』は翻訳をちゃんとやらないといけないから、それもあって担当している部分はあります。


それに羽海野さんは非常に繊細というか、感性が過敏な人で。人間、物事がこんな風に見えたり聞こえたりしたら、生活していくのは大変だと思う。

ーーそうなんですか。

僕はそういう作家さんを担当するのが結構得意なんですよ。それに羽海野さんは努力する天才だから、技術面のサポートは将棋の話くらい。あとは世間話をするくらいです。


マンガの編集者にもいろいろいるけど、僕はマンガの話をほとんどしないんですよ。編集者は話も考えるし、物語の大枠もつくるけど、結局描くのは作家本人ですよね。


編集者ができることなんてたかが知れている。だから、いかに作家から人として信用してもらうかにとても重きを置いている。


羽海野さんに限って言えば、彼女が苦手な色々な社会的な手続きを手伝ったりしています。

ーー話を一緒に考えたりもしつつ、編集者の役割として一番大切なのは作家さんとの信頼関係性をつくることと考えられている。

そうだね。仕事上のパートナーでありながら人生のパートナーみたいな感じ。結婚相手とか友達ではないんだけど、信頼できるパートナーとしてそばにいることが一番大事なんじゃないかと思います。

ーー松井さんも友田さんに「作家を誰よりも大事にしろと教わった」とお話しされていました。

編集者は作品を描くことができないわけで、作家さんに描いてもらわないと成立しない仕事なわけだから、その人たちを大事にしなくて誰を大事にするのと。


羽海野さんは本当にそういう意味で、信頼関係をとてもしっかり築けた人かな。

ーー作家さんが苦手なことがあれば何でも補うし、それを通じて信頼を獲得することが編集者として大事にされているところ。

やっぱり信頼を勝ち得ないとなかなか難しいよね。でも信用されていても作品が当たらないときもあるし、難しいよね。

マンガの仕事だけやっていても良いものはできない

ーー友田さんは「ヤングアニマル」では作品の担当だけでなく、表紙グラビアの責任者をされていたんですよね。

今でも責任者だよ(笑)。

ーーそうなんですか。

グラビアのウケるウケないの目利きがあるマンガの編集者って意外と少ないから、今も僕が最後のチェックをしているんですよ。

ーー松井さんが友田さんから「お前マンガ雑誌にグラビアとか要らないと思ってるタイプだろ」と言われてドキッとしたとお話しされていて。実際に「ヤングアニマル」のアンケートを集計しているとグラビアが上位で、雑誌を手に取ってもらうための入口になっていると気づけたのだとか。

グラビア次第で雑誌の部数は1万部単位で変わるからね。今もそうなんだけど、コンビニを主戦場にしている青年誌において、グラビアは必須だと思います。


コンビニで雑誌を手に取ってもらえるかどうかはどんなマンガが載っていようが実はあまり関係なくて、グラビアの良し悪しなんです。

ーーそうなんですね。

一昨年に「ハレム」っていう電子雑誌をつくって、最初はグラビアをやらない予定だったんだけど、「せっかくアニマルがやるんだから電子だけどグラビアを載せようよ」って僕が言ったんだよね。


そうしたら最初の担当者があまつ様(あまつまりな)のTwitterを見ていて、「この子が良い」って言うから採用したらすごく売れたんです。

ーーグラビアはいつ頃から担当されているんですか?

グラビアは長いね、もう20年以上やっているかな。「ヤングアニマル」を創刊したときはなかったんだけど、当時グラビアが好きな編集者がいて、1年後にやり始めたんです。


僕もマンガ誌にグラビアなんか必要ないんじゃないのと思っていたんだけど、やったら部数がポーンと伸びたんで驚いて、それからすごく研究しました。

ーー研究というのは、いろんな雑誌を読んだり?

当時は「デラべっぴん」とか「スコラ」をよく見ていたね。「ヤンマガ」(週刊ヤングマガジン)や「ヤンジャン」(週刊ヤングジャンプ)も基本的にグラビアが載っていたから、それを見ながら研究した。


グラビアアイドルを知るきっかけは事務所からの売り込みもあるけど、最近は本人がInstagramに写真をたくさん上げてくれる。


僕も「ヤングアニマル」の部数を維持するために、かわいいと思った子はフォローして、良いなと思ったら声をかけていくし、旬の子を見逃さずに採用するようにしています。

ーーSNSの登場でグラビアアイドルを見つけやすくなったんですね。

グラビアの仕事はすごく楽しいよ。撮影チームは安く行けるところだとサイパンとか、もっと高いところだとハワイとか。パラオとかにも行ったことがあったかな。流石にもう撮影現場には行かないけど、楽しくて実に良い仕事だった。


僕とかは本当に最後の昔気質のマンガ編集者だと自分で勝手に思ってるけど(笑)、この歳になって思うのは仕事するだけじゃなくてしっかり遊ぶのが大事だよ。今の編集者はみんな真面目で、マンガの話ばかりしているでしょ。


でも、遊ばずにマンガの仕事だけをやっていても良いものはできないと思うんだよね。もちろん、それでできる人がいるなら全然構わないんだけど。あまりそういう人に会ったことはない(笑)。

ーー遊ぶことが結果として仕事にも活かされる。

みんな真面目なんだよな。でも、本当に面白いマンガ(の連載)を起こす編集者ってなんか違うんだよ。

ーー本を読みつつ、街にも出ろというか。

今更ながら『本を持って街に出ろ』だよね。カッコ良く言うとそんな感じかな(笑)。


インタビューした編集者さんに新たな編集者さんを紹介いただくことで続いてきた「編集者インタビューリレー」ですが、今回をもって連載を終了します。

これまでお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。ぜひ過去のインタビューも合わせてお読みください。

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